イラストは「世界終末時計」(doomsday clock)を模したものである。これは、核戦争や環境破壊などによる人類の滅亡を午前0時になぞらえ、「0時まであと何分何秒」と残り時間を示す時計である。そもそもは、日本に原子爆弾が投下された2年後の1947年、アメリカの科学誌『原子力科学者会報』の表紙に描かれたのが始まりである。ちなみに、2020年現在では「100秒前」となっている。

カスタマー・トランスフォーメーションへの挑戦

 同様の危機感から、「アントロポセン」(anthropocene)、日本語では「人新世」という考え方が静かに注目を集めている。ノーベル化学賞を受賞した大気化学学者パウル・クルッツェンが提唱したもので、人類の活動は、それこそ小惑星の衝突や超巨大火山の破局的噴火に匹敵するほどの地質学的な変化を地球に刻み込み、その結果、大規模な環境変動が引き起こされ、地球はその姿を変えつつあるという。そして、地球の未来は人類の行動次第である、と。

 もちろん、これまで無策だったわけではない。1960年に採択された「国連開発の10年」に始まるSDGs(持続可能な開発目標)、1995年から毎年開催されているCOP(気候変動枠組条約締約国会議)といった国際的な取り組みの一方、民間では、NPOやNGO、社会起業家、草の根の市民活動家などによって、地道な活動が続けられてきた。残念ながら、終末時計の針を大きく戻すことはできていない。

 現在しかし、世界的なムーブメントが起こりつつある。最近では、15歳の時から気候変動の危機を訴え続けている、スウェーデンの若き環境活動家グレタ・トゥーンベリがY世代やZ世代の共感と支持を集めているが、ビジネスの世界では、とりわけグローバルマーケターといわれる消費財メーカー、たとえばCSV(共通価値の創造)をいち早く実践したネスレ、SDGsを国連と協調して推進してきたユニリーバなどが、先覚的なプロジェクトを推し進めている。

 こうした傾向を、一橋大学の名和高司氏は「カスタマー・トランスフォーメーション」(CX)と表現する。具体的には、消費者や生活者の啓蒙による価値観や購買行動の転換であり、必然的に顧客戦略やマーケティング活動にも転換が求められる。同様の考え方に、ソーシャルマーケティング、コーズ・リレーティッド・マーケティング、フィリップ・コトラーの言うマーケティング3.0などがあるが、いまやマーケティングという領域を超えて、企業の危急存亡の秋であり、だからこそ先行者には果実が待っている。

 なお、CXというと、一般的には「顧客経験」の質を高めることだが、けっして目新しい考え方ではない。未来学者のアルビン・トフラーは、1970年に発行された『未来の衝撃』(実業之日本社)「第10章 エクスペリエンスメーカー」の中で、消費者に精神的満足感を提供する経済が登場し、人間はよりよいQOL(生活の質)を追求するようになる、と予言した。事実、1980年代には、消費行動の研究者や心理学者たちによって、消費や需要には感情や気分などの心理的な影響が作用することが指摘され、ジョセフ・パイン・ジュニアによって、「経験経済」という考え方が提唱された。

 本インタビューでは、こうした歴史と現在を踏まえつつ、CX1.0、CX2.0、CX3.0に区別し、個々の問題点と展望について考える。

CXの発展3段階

編集部(以下青文字):「カスタマー・エクスペリエンス」(CX)を超えて、よりよい未来、たとえば持続可能性、多様性の尊重、健康、ひいては幸福へと顧客を導いていく「カスタマー・トランスフォーメーション」へと目線を上げるべきだとおっしゃっています。

カスタマー・トランスフォーメーションへの挑戦一橋大学ビジネススクール 客員教授 名和高司 TAKASHI NAWA 一橋大学ビジネススクール客員教授。東京大学法学部卒業後、ハーバード・ビジネス・スクールにてMBA(経営学修士)、ならびに優秀成績者に授与されるベーカースカラーを取得。三菱商事を経て、マッキンゼー・アンド・カンパニーに入社。自動車・製造業分野におけるアジア地域ヘッド、ハイテク・通信分野における日本支社ヘッドを歴任。同社ディレクターを経て、2010年より現職。同年から2016年までは、ボストンコンサルティンググループのシニアアドバイザー、現在はファーストリテイリング、味の素、SOMPOホールディングス、NECキャピタルソリューションズの社外取締役を兼ねる。主な著書に『ハーバードの挑戦』(プレジデント社、1991年)、『学習優位の経営』(ダイヤモンド社、2010年)、『日本企業をグローバル勝者にする経営戦略の授業』(PHP研究所、2012年)、『「失われた20年の勝ち組企業」100社の成功法則』(PHP研究所、2013年)、『CSV経営戦略』(東洋経済新報社、2015年)、『成長企業の法則』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2016年)、『コンサルを超える問題解決と価値創造の全技法』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2018年)、『企業変革の教科書』(東洋経済新報社、2018年)、『経営改革大全』(日本経済新聞出版、2020年)、『志本経営(仮)』(近刊)が、また共著に『高業績メーカーは「サービス」を売る』(ダイヤモンド社、2001年)、『マッキンゼー戦略の進化』(ダイヤモンド社、2003年)がある。

名和(以下略):私はCXを1.0、2.0、3.0の3段階に分けて定義しています。まずここから始めましょう。

 CX1.0ですが、「カスタマー・エクスペクテーション」で、文字通り、明示的か否かを問わず、顧客のニーズやウオンツを予期(expect)して、これに応える段階です。マーケティングの泰斗、フィリップ・コトラーの言う、製品中心のマーケティング1.0に相当します。

 CX2.0は、いま多くの企業で取り組まれているカスタマー・エクスペリエンスです。顧客の利用シーンから学び、そこでの経験(experience)を重視し、最適化を図る段階といえます。顧客志向へと移行したマーケティング2.0です。この場合、望ましい顧客経験とは何かが問われます。

 私は、ニューヨークに本社を置く世界最大のブランディング会社、インターブランドのシニアアドバイザーを務めているのですが、傘下のC Spaceは顧客経験価値を次の5軸から評価しています。

 ①自分だけのものと思えるか(relevance)。
 ②身近に感じられるか(ease)。
 ③オープンで正直か(openness)。
 ④自分の立場で考えてくれるか(empathy)。
 ⑤いい気分にさせてくれるか(emotional rewards)。

 昨2019年、C Spaceは日本で初めてCXに関する調査を実施したのですが、トップに輝いたのはカゴメでした。先の5軸すべてにおいて上位3位に入っており、①に相当する「味と健康、品質へのこだわり」、③に相当する「ブランドの信頼性」によって高い顧客経験価値を提供している。しかも、顧客のみならず、株主や入社志望の学生たちをも対象にした顧客経験価値の向上に取り組んでいることなどが高く評価されました。その一例を紹介すると、長野県八ヶ岳近郊に、地元と協力して野菜生活ファームという施設を設け、農業と調理体験、それに工場見学をセットで提供し、人気を呼んでいます。

 CX1.0と2.0まではもはや常識ですが、今後目指すべきはCX3.0、すなわちカスタマー・トランスフォーメーションです。私の言葉で申し上げれば「顧客をよりよい未来に誘う」ことであり、コトラーのマーケティング3.0とほぼ同義です。

 たとえば「環境負荷を減らす・なくす」「社会的弱者を支援する」「幸福を分かち合う」など、社会的な利益に貢献することが志向されます。企業の利益や顧客の欲望をいたずらに煽ることもある1.0や2.0との違いが、ここにあります。

 ちなみに、かつてミスミ創業者の田口弘氏が「マーケットアウト」という考え方を示されましたが、顧客の声に闇雲に従うことなく、企業が意志を持ってみずから市場を創造するという意味で、これもCX3.0に近い。