甘えは本来、普遍的な心性であるはずなのだが、著者は「甘え」がことさらに培養されている点が日本人の特色であると言う。それは、他言語に「甘え」と同様の言葉がなく(筆者注:現在ではこの点についても、多くの反証や批判がある)、日本語には甘えの関連語が多く、日常語としてふんだんに使われていることから例証されていると、少なくとも著者は主張する。そして、これは互いに甘えることを許容する家族関係を中心に、日本の社会や組織が構築されたことによって強化されたのだとも言う。

 さらに著者の論を要約すれば、明治憲法の草案者である伊藤博文が、日本の近代化にあたり、キリスト教のような宗教的な基盤を持たない日本人にとっての、欧米の憲法政治の背景にある宗教(神と確立した個人との強固な関係性)の代替物として、天皇家を宗家にいただく家族関係を軸に、国家の運営を設計したことに端を発する。

 すなわち、「日本人は甘えを理想化し、甘えの支配する世界を以って真に人間的な世界と考えたのであり、それを制度化したものが天皇制であった」というのである。この見解の適不適を論じる能力は筆者にはないが、日本社会においては、周囲とうまくやる(上手に甘え、上手に甘えられるという、他人とゆるやかに地続きであるような、「未分化」の状況を続ける)ことは良しとされ、自分を確立する(「分化」する)ことは推奨されてこなかったことだけは確かだといえる。

他人、義理、甘えという
人間関係の「3つの同心円」

 著者は「甘え」をキー概念として、3つの世界が同心円的に存在しているという。

 甘えが自然に発生する親子の間柄は人情の世界、甘えを持ち込むことが許される関係は義理の世界、人情も義理も及ばない無縁の世界は他人のすむところである。これは図式的であるとはじめにことわったように、以上3つの世界は画然と区別されるものではない。

会社員の副業はやはり危険!?名著『「甘え」の構造』が暴く日本企業の本質