面白いのは、義理が他人である者を結びつけ、甘えの人間関係(家族的な関係)に入る可能性を作っていることである。もともとは、恩(ひとかけらの人情)を受けることによって一種の心理的負債が発生し、これに対して恩を込めて返済することによって相互扶助の関係が成立する。これが義理に発展するという。

 会社によっては、重要な取引先との関係が単なる取引関係(他人の世界)ではなく、相互扶助の関係になり、多少のことでは揺るがない強いつながり(義理の世界)になっていることを想起すればよい。

 この領域認識は、自分の中で、甘えを許す領域と許さない領域を分けているということでもある。それを通常、内と外とに分けて認識しているのだが、その内と外も、人によって、状況によって、範囲が揺れる。

 遠慮の有無は、日本人が内と外という言葉で人間関係の種類を区別する場合の目安となる。遠慮がない身内は文字通り内であるが、遠慮のある義理の関係は外である。しかしまた義理の関係や知人を内の者と見なし、それ以外の遠慮を働かす必要のない無縁の他人の世界を外と見なすこともある。いずれにせよ内と外を区別する目安は遠慮の有無である。

3つの領域認識の違いが
会社と社員の間に生む悲劇

 今、多くの職場で起こっている悲劇は、この3つの領域認識の違いである。たとえば、会社全体を家族と考え、会社は「人情の世界」=無遠慮空間と思っている役員がいるとする。当然、「家族」なのだから、社内での会話に特別な配慮はなく、悪気なくずかずかとプライバシーに踏み込んでくる。そこへ、仕事はあくまで仕事と考え「他人の世界」の中で発注者と受注者のごとくライトな関係で仕事をしたい人が入社すると、新入社員にとっては役員のあらゆる言動がハラスメントに見える。

 これとは逆に、職場が自分の居場所だと考え、上司や先輩に面倒を見てほしいと思い、会社に「人情の世界」を求める人が、「義理の世界」あるいは「他人の世界」のように、最初から仕事のプロとして、お手並み拝見などという扱いを受けると、給与に見合った貢献ができていない(義理が果たせていない、他人同士の契約を守っていない)という状況に追いこまれ、居場所がないと感じ、早期に退職してしまう。