日韓逆転の原動力は日本のロッテからの資金

 韓国のロッテは、実質的に日本より20年遅いスタートにもかかわらず、柱となる主力事業部門が複数育っていった。前述したように、観光流通、建設・不動産、石油化学の3本柱という韓国ロッテグループのコングロマリット化への種は、70年代後半から80年代半ばにすでに播かれていたからだ。ロッテが始めたことで韓国経済界で認知された観光流通産業、オイルマネーを当て込んだ設立ブームの後の倒産ラッシュで淘汰の進んだ建設業界、当時は海のものとも山のものともつかなかった石油化学産業など、後から振り返れば、重光の多角化は神がかり的な「経営の選択と集中」戦略によって成功を収めることになった。晩年のインタビューで重光は一連の多角化をこう振り返っている。

「すべての分野で企業が込み合う日本に比べて、創業の苦痛はあるかもしれないが、事業機会を得るのに良い韓国の方が、企業家としては確かに魅力がある」(*3)

 一方で、ロッテグループが日韓で巨大化する中でも、重光のカリスマ性頼みのワンマン経営が続く「重光商店」という問題も抱えていた。前述したようにオーナー経営者の重光が日韓ロッテの経営のすべてを一人で采配する状況だったからだ。

 だが、ロッテの経営を振り返ると、少なくとも90歳を迎える頃まで、日本では「重光武雄商店」、韓国では「辛格浩(シン・キョクホ)商店」として、ロッテグループは重光の完璧な掌握力の下でほぼ失敗がない成長を続けてきたといっていい。数え年で84歳となってもグループの社長を務めていた2005年のインタビューで重光はこう語っている。

「私の強みは日本と韓国の両方を見てきたことだ。韓国にいると日本のことがよく分かるし、逆もある。ずっと日本に住んでいると、日本のいいところ、悪いところが見えなくなる。第三者的に見ると見えてくるものがあるんですよ」(*4) 

 その後も、日韓ロッテの規模の差は拡大する一方だった。前述したように、「失われた20年」を経た日本と、「漢江の奇跡」を経た韓国との差は歴然としている。2015(平成27)年で比較すると、日本のロッテの売上高は3145億円。これに対して、韓国側は6兆4798億円と、日本の20倍以上の規模に膨らんでいる。だが、この差は重光にとっては当然の帰結だっただろう。日本のロッテは韓国のロッテのために絶えず投資してきた。いわば、日本のロッテは事業資金を融資する銀行であり、黄金の卵を産むガチョウだった。日本から韓国への投資がピークに達していた80年代後半に重光はこう語っている。

「海外投資残高はおよそ300億円。その90%は韓国に投下している」(*6)

 過去の韓国での巨大投資には銀行借入や起債が含まれるとはいえ、投資残高が1ケタ少ないようにも見えるし、あくまで投資の「残高」であるためなら、過去の投資の一部が日本に返還・還流されたはずだが、そうした話が外部に出たこともない。日本のロッテの投資先のほとんどが韓国ということは確かなようだ。重光は、社員からの「日本の利益を日本の社員に還元しない」という批判に対しては、どこ吹く風とばかり、このように続ける。

「ロッテの母体は日本にある。しかし、より大きなリターンを期待できるところに投資をするのは企業家の務めだ。内と外を区別して回収を急ごうとするのは、島国根性の日本人的発想ではないか。今の日本の状態がいつまでも続くわけはなく、将来は日本のロッテが助けてもらうこともある」(*5)

 次回は、日本からの投資を糧にさらなる成長を遂げて韓国有数の財閥にのし上がり、さらには1990年代後半のアジア通貨危機とそれに続くIMFによる韓国救済の中で、ついに韓国5位の財閥にまで上り詰めるロッテの軌跡を取り上げる。

*3 晩年のインタビューによる
*4『日経ビジネス』2005年7月18日号
*5『日経ビジネス』1989年8月28日号
 

<本文中敬称略>