そんな一辺倒な国内世論に対して、説得力ある反論などがちらほらと出てきて、同調一色だった考え方の人たちが多様性を持つようになった。

 何かのトピックに対して世間が盛り上がっているとき、「多数意見に同調したい大衆心理」の強さと、それが自分にも内在していることについて自覚的でいられれば、もう少し賢く見極められるかもしれない。恥ずかしながら筆者はしっかり反省させられた。

伝える側だけでなく、聞く側も努力を

 言い方や伝え方というのはひとつのスキルで、それこそスポーツ選手における身体能力のように、後天的に開発できる部分と先天的な才による部分から形成されている。
 
 伝える側がきちんと“言う・伝える”をできるのであればそれに越したことはないが、 “言う・伝える”が苦手な人がいるのも、足が遅い人が存在するのと同じくらい当たり前である。
 
 だから、きちんと伝えるのが苦手な人に対して「ちゃんと言え」「言い方に気をつけろ」などと詰めるのは酷であり、糾弾する側も相手を理解するチャンスを自ら放棄してしまっていて損である。知らされていないだけで、実は理解に値する事情が相手にあるかもしれないのだ。
 
 今回の騒動を経て、筆者は、今後、結論を急いで相手の内情を決めつけることはせず、いったん立ち止まってそこに想像を巡らせてみるために、一呼吸置きたいと思った。この一呼吸の猶予をその都度設けるのは難しそうだが、これができるようになれば人生はさらに心健やかなものになるに違いない。お互いが気持ちよく過ごすための一工夫として、相手の事情を想像してみるわけである。
 
 このように、大坂選手のツイートは日常生活においてもおおいに参考になる部分が見受けられる、示唆に富んだものであった。自分が発信する際は最大限の努力を払いたく思うとともに、普段あまり意識されない“聞く側としての姿勢”についても、今一度考えていきたいところである。