ただ下流部以外では、荒川の暴れぶりは収まらなかった。明治の世に入ってからの暴れっぷりも激しく、何度も洪水を起こした。

 極めつけは1910(明治43)年6月から8月に断続的な大雨が降ったとき。荒川のあちらこちらで防波堤が決壊したことで東京の下町は浸水し、多数の命が奪われた。

 このままではいけないと、大洪水の翌年から水害対策として荒川に幅500メートルの放水路を開削する工事にとりかかった。明治から大正、昭和をまたぐ大工事である。現在の北区・岩淵から東京湾まで総延長22キロメートルにもおよぶ荒川放水路がつくられたのである。

 そのかいあって川の流れは穏やかになり、荒川は人々の心を癒やす存在へと変わっていった。

 この時代を経て、1932(昭和7)年に誕生したのが荒川区だった。南千住、日暮里、三河島、尾久という4つの町が合併し、ここを流れる大きな川の名前から「荒川区」と命名したのである。

 ところが、1965(昭和40)年に改められた河川法により、人工的につくられた荒川放水路のほうが「荒川」という名称に決められた。そして、分岐点となる岩淵水門で分かれた南千住、日暮里、三河島、尾久を流れる荒川の流路については、「隅田川」を正式名称とすることを決定。かつて地元の人が、「荒川」と呼んでいた川は「隅田川」という名称になった。こうして荒川区から荒川が消えたのである。