隅田川が流れるならば
「墨田区」ではなく「隅田区」のはず

 東京の地図に記されている「隅田川」と「墨田区」を見ていると、ふと疑問が浮かぶだろう。川の名は「隅」という漢字が充てられているのに、区名は「墨」である。無論、地図の表記の誤りではない。

 このあべこべは、いったいどういうことだろうか。

 都立墨田川高校の校歌にも同じあべこべが存在する。古くは「七高」の愛称として知られた伝統校で、この学校の校歌を作詞したのは作家の幸田露伴だ。1925(大正14)年に学校の近隣に住んでいた露伴に依頼し、格調高い校歌が誕生したのだが、その冒頭が「隅田の川は吾師なり……」で始まる。校名と校歌で「すみだ」の文字が異なっているのである。

 もっとも、高校が都立墨田川高等学校に改称されたのは1950(昭和25)年で、露伴は1947(昭和22)年にこの世を去っているので、このちがいに気づくことはなかった。

「隅田川」という河川名は、古くからさまざまな表記があった。平安時代の835(承和2)年の太政官符には「住田河」と記されている。「住田」は川の三角州にある田という意味で、このときは「すだ」と読まれていたようだ。

 ほかにも「墨多」「澄田」「角田」という漢字が充てられていたことがある。

 現在の「隅田川」がメジャーになったのは明治になってから。一般的になった表記が、正式な表記として認定されたのは1965(昭和40)年と比較的最近である。その「隅田川」が流れる区が「墨田区」となったのは1947(昭和22)年、旧本所区と旧向島区が合併した際につけられた。区名は公募され、多くの候補名が寄せられるなか、最終的に選ばれたのが「墨田区」だった。

 桜の名所である墨堤から「墨」の一文字を、「隅田川」から「田」の一文字を持ってきて「墨田区」と決定されたのである。

 この区名の元となった墨堤は現在、姿を消している。いまの墨田区の地図には「墨堤通り」があり、これが過去に堤があったことを物語っている。