「南画などに表現された孤独な思想や精神を林泉の上に現実的に表現しようとしたものらしい。茶室の建築だとか(寺院建築でも同じことだが)林泉というものは、いわば思想の表現で自然の模倣ではなく、自然の創造であり、用地の狭さというような限定は、つまり絵に於けるカンバスの限定とおなじようなものである。(中略)林泉の孤独さなどというものがいかにヒネくれてみたところで、タカが知れている。(中略)林泉や茶室というものは、禅坊主の悟りと同じことで、禅的な仮説の上に建設された空中楼閣なのである。」

桂離宮も日光東照宮も
「人工的なもの」は美的ではない

 その点、芭蕉や良寛などの日本の伝統的な精神生活者は、少しの人工性をも容認しないものであり、タウトが嫌う日光東照宮の豪奢な装飾も、タウトが絶賛する桂離宮も、そこに人(人工)の気配があるという観点から考えれば、同じで堪えられぬものであった。

「彼等(芭蕉や良寛など)は、その精神に於て、余りにも慾が深すぎ、豪奢でありすぎ、貴族的でありすぎたのだ。その絶対のものが有り得ないという立場から、中途半端を排撃し、無きに如かざるの清潔を選んだのだ。無きに如かざるの精神にとっては、特に払われた一切の注意が、不潔であり、饒舌である。床の間が如何に自然の素朴さを装うにしても、そのために支払われた注意が、すでに無きに如かざるの物である。」

 安吾は、「日本の伝統」にも疑問を投げかける。着物を着ることが伝統だと思われているが、果たして日本人にキモノを着なければならない必然性があるのか。ただ洋服との邂逅の機会がなかっただけではないか、というのである。

 たとえば、古来の物語では、日本人は仇討ちに命を懸けるということになっている。それを真に受けると、日本人は執念深い民族ということになるが、そんなことは実際にはまるでない。他の民族と違ってすぐに忘れてしまう。

 伝統だと言われているもののなかには、明らかに恣意性や欺瞞性があり、ある一定の目的に人を誘導するためにあえて「フェイク」の自己定義をしている可能性がある。だから、そうしたフェイクかもしれない「伝統」を「伝統だから」という理由であがめる必要はないという。