その一方で、伝統や伝統の持つ「型」には力があるとも指摘する。

「座敷でペチャクチャ喋っていたり踊っていたりしたのでは一向に見栄えのしなかった舞妓達が、ダンスホールの群衆にまじると、群を圧し、堂々と光彩を放って目立つのである。」

 著者が目撃したのは、お座敷ではたいした芸もなく、冴えない舞妓たちが、ダンスホールに着物で降り立った途端に、ドレスで踊る淑女たちをその「伝統」の力で圧倒した姿であった。同様に相撲の力士が国技館で型通りの振舞いをすることも、周囲を威圧するという。長い年月を経て生き残ってきた伝統とその型には、見るものを引き付けずにはおれぬ何かがあるのだろう。

本当に必要なのは「実質」
真の美はそこにこそ生まれる

 しかし、安吾はこうも言う。本当に必要なのは実質だと。実質がなければ、伝統も命を失う。

 実質とは何か。安吾にとっての実質とは、必要のことである。人が心から必要と思い、その実現に向けての思いがあり、エネルギーが掻き立てられる何かである。(ときとして、ただひけらかすために)知的に構成された熱量の低い人工的なものではなく、人がそこに存在する熱い何かである。

 そこには俗と聖との区別がない。安吾は俗を肯定する。欧米文化の猿真似であってもかまわない。彼は、人が必要のために、悲願や情熱を持っているかどうかを見る。さらには、そこに美的でありたいといった作為性のかけらすらないことを要求する。そうすることで初めて真の美が生まれるという。

「美しさのための美しさは素直でなく、結局、本当の物ではないのである。要するに、空虚なのだ。そうして、空虚なものは、その真実のものによって人を打つことはけっしてなく、詮ずるところ、有っても無くても構わない代物である。」