具体的に安吾が美しいとして挙げるものは、小菅の刑務所、佃島のドライアイスの工場、帝国の軍艦であり、鍛え抜かれたオウエンス(ベルリン五輪の4冠金メダリスト)の肉体である。

「小菅刑務所のこの大建築物には一ヶ所の美的装飾というものもなく、どこから見ても刑務所然としており、刑務所以外の何物でも有り得ない構えなのだが、不思議に心を惹かれる眺めである。」

 安吾が惹かれる美しいものは、タウトが賞賛した観念が作り出す美ではなく、機能美のことであった。

「ただ『必要』であり、一も二も百も、終始一貫ただ『必要』のみ。そうして、この『やむべからざる実質』がもとめた所の独自の形態が、美を生むのだ。実質からの要求を外れ、美的とか詩的という立場に立って一本の柱を立てても、それは、もうたわいもない細工物になってしまう。」

 これが安吾の美意識であった。

現代の「知性」もどきを
安吾ならどう喝破するか

 さて、現在、ビジネス社会などにおいて、工業化時代とは違う新しい時代が確実に来つつある。西欧からの知に過去が否定された明治期や戦後のようでもある。知的で、美的で、クリエイティブで、洗練されていることが重要であり、過去に重要視されていた、勤勉、愚直、泥臭さ、フットワークなどは、俗なものであり前時代的なものとして排除されつつある。多くの人がそれらの変化に対応できず、苦しんでいるようにも見える(私も苦しんでいる)。

 さらに悲しいことに、知的で、美的で、クリエイティブで、洗練されていなければならないと強迫する者がいる。てっとり早い「教養風味」をまぶしただけで、大して実質がないにもかかわらず、そのような姿を大衆向けに上手に演出し、憧れの対象になっている人もいる。