そうかと思えば、過去の伝統を自分勝手に不適切に援用し、外国人向けに偽装した浅薄な日本文化を拡散し、悪びれない者もいる(その最も卑近な例は「日本スゲー」と言った心性だろう)。時代の精神性が良くない方向に進んでいるように思える。

 安吾なら、このような状況をどう評するだろうか。

 必要だと思うことを一切の美的な潤色なしに呵責なく書くのが安吾である。冒頭から「君たちには実質があるか」と問うてくるかもしれない。戦後、勤勉さ、泥臭さを伴った働き方を伝統として正当化してきたのかもしれないが、それは本当に伝統だったのか、そこに必要はあるのか。そして、それをする君たちにはエネルギーがあるのか――。そういうことを問うだろう。

「猿真似はしているか」と聞くかもしれない。新しい文化が生まれ、入って来ているのだから、どんどん試して吸収すればよいではないか。日本の伝統の1つは、外から入ってきた新しい思想や道具を節操なく受け入れ、内在化し、見事に日本化してしまうことだ。その節操のなさを思い出せとも言うかもしれない。

 洗練を目指しても最初は悲惨なことになるだろうが、時を経ると血肉になる。日本の洋服文化はいまでは世界で最も注目されている。タウトが小馬鹿にした猿真似の宝塚少女歌劇団(当時の名称)は独自の発展を遂げ、いまや日本を代表する文化となった。そして、そうなるまでには、実質を実現せんとした人の情熱があったのだ。我々をもってできないことはない。猿真似万歳である。

伝統はつくるものではなく
実質としてそこにあるもの

 新たに一からやり直せというかもしれない。安吾はこうも言っていた。

「京都や奈良の古い寺がみんな焼けても、日本の伝統は微動もしない。日本の建築すら、微動もしない。必要ならば、新らたに造ればいいのである。」