「私は本当に幸せ」
生活保護で暮らした元華族女性も

 明治憲法においては、元首である天皇が国を統治するものとされた。天皇とその血縁者である皇族、そして皇族を守り支える華族には、特別な身分に対応する特権の数々が保障された。とはいえ、経済的基盤は脆弱(ぜいじゃく)だったため、明治期から大正期にかけては財閥の華族化が盛んに行われた。皇族・華族には財閥の経済力が流れ込み、財閥は爵位という名誉を得るという「Win-Win」だったわけである。

 しかし大正期から、華族の経済的基盤はさらに脆弱化していく。関東大震災や日中戦争や太平洋戦争は、華族をより貧しくすることはあっても、豊かにすることはなかった。財閥華族のみが例外である。最終的には1945年、敗戦とともに華族制度が廃止された。残っていた資産の多くは、高額の「財産税」によって失われることになった。同時に、皇族の“人員削減”も行われた。

 読売新聞の記事データベースには、戦後、代々の家屋敷を手放さなくてはならない元華族、人生初の職業生活や事業経営に挑む元華族や元皇族の姿がある。売り上げの横領や詐欺(1949年)、窃盗(1951年)などの容疑者としても、元華族の姿がある。出来事とともに記されているのは、「事業を始めたが成功しなかった」「貧困から家庭が不和に」「家族が重病にかかり治療費がない」「暮らしていけない」といった背景の数々だ。生活保護には、そういう場面を支える役割も期待されていた。

 実際に、生活保護で暮らした元華族もいた。「昭和」が終了して約2週間後の1989年1月22日、足立区のアパートの一室で亡くなった松浦董子さん(当時80歳)は、その1人である。松浦さんは華族の家庭に育ち、昭和天皇の妻である香淳皇后の兄と結婚したが、結婚生活の不幸や病気が重なって離婚。働きながら単身生活を続け、高齢期は生活保護で暮らしていた。しかし松浦さんは、簡素な暮らしの中でも人柄や立ち居振る舞いで尊敬を集め、交友が絶えることはなかった。女子学習院の同窓会にも毎年参加し、経済状況の全く異なる元同級生たちと楽しい時間を過ごしていた。「私は本当に幸せです」が口癖だった松浦さんの葬儀には、元同級生たちも参列したという。もっとも、松浦さんが生活保護で暮らしていた当時、高齢者の保護費には高齢者特有の社会生活を考慮した「老齢加算」があり、社会とのつながりを維持しながら心身とも健康な生活を送ることは、現在よりも容易だった。

 皇族の姻戚であっても生活に困窮し、生活保護で暮らした事例は、実際にある。その生活は、不幸とは限らない。眞子さまと小室さんの今後に、若干の危惧が混じった関心を向ける外野の大人たちは、まず、生活保護があらゆる人に幸せな毎日を保障する制度であり続けることを願うべきであろう。生活保護がそのような制度であり続ける限り、大人たちは、若い人々に「親は親、あなたはあなたで幸せになって」と心から言えるはずだ。

(フリーランス・ライター みわよしこ)