本の中では、鴻上氏が司会をしているNHK BS1の『cool japan』という番組で、アメリカ、ヨーロッパ、オセアニア、南米、アジアなどさまざまな地域からきた8人の外国人に「あなたの国で五輪はどれくらい話題になっている?」と質問をした際の反応が紹介されていた。注目すべきはそこでほぼ全員が、「たいして話題にならない」「ニュースで見るくらいで、メダルを取ってもそんなに大騒ぎにならない」と回答した点だ。

 メダルの数が気になると回答したのはアジアから来た人だけで、ほぼ全員が口を揃えてこのように述べたという。

「だって、知らない選手を見て面白い?サッカーだったら、応援している選手がいて、よく知っていて、だから興奮するじゃないか。でも、オリンピックって、どんなに高く跳んだり、遠くに投げても、知らない人だからさ。あんまり盛り上がらないんだよね」(同書)

 日本だったら、「人生のすべてを懸けているアスリートに失礼だ!謝罪しろ!」などと集中砲火を浴びそうな発言だが、海外では極めてノーマルな考え方のようだ。世界では、スポーツとはあくまで「個人」が織りなすエンターテインメントという位置付けなのだ。

「個人」のパフォーマンスに熱狂して、「個人」の努力に感動して、「個人」の成功が尊敬される。もちろん、団体のスポーツの場合はチームワークが称賛されることもあるが、それ以前にアスリート個人にフォーカスが当たる。

 だから、サッカーやアメフトのように自国で人気の高いスター選手が出場しないオリンピックは、「へえ、やってたんだ」くらいのシラけた反応になってしまう。

スポーツに「国家・民族」を重ねてしまうアジア人
菅総理の発言にもその傾向が色濃く…

 しかし、日本をはじめ、中国、韓国などの一部アジア諸国や、ロシア、北朝鮮などはちょっと違って、スポーツに「国家・民族」を重ねるカルチャーが強い。五輪前には名前を知らないアスリートでも、観戦したことのないマイナーな競技でも、メダルを取ればまるで戦争に勝ったかのように、国をあげて大騒ぎをしたり、ロシアのように、メダルを取るために国家ぐるみでアスリートにドーピングをさせる。「五輪は選手間の競争であり、国家間の競争ではない」と定めた五輪憲章をガン無視して、「ガンバレ、日本!」などとメダルの数で勝った負けたと大騒ぎをするのだ。

 こういう国では、アスリート個人の手柄を、国家や民族の手柄にすり替えて、国家の文化水準や団結力、民族的優劣へと強引に飛躍して結びつける傾向が強い。

 「日本人はそんなことはしてないぞ!」というお叱りが飛んできそうだ。

 確かに、若い世代でそういう人は少数派かもしれないが、ある世代、特に前回、東京五輪を経験した世代の多くはスポーツに「国家・民族」を重ねてしまう。その代表が、僕らのリーダー・ガースーだ。