「わかり易い話が過ぐるベルリンオリンピツク大会で欧米の選手に比べてはるかに体格弱小のわが選手が堂々水上およびマラソンの覇権を握つて全世界を驚嘆させたが、これは実にわが国民の心臓が世界中で一番強いためであることがこの調査によつて立証されたのである」(同上)

 メダルを獲得したのはアスリート個人の能力・努力によるものなのに、それをなぜか「日本人の優位性」へと結びつけてしまっているのだ。ちなみに、この時、マラソンで金メダルを取ったのは、孫基禎。日本オリンピックミュージアムでは「日本人メダリスト」として紹介されているが、韓国人だ。

 現代の日本人からすれば、ドン引きするような話だが、ここまで調子に乗ってしまったのは外国人からヨイショされたことも大きい。もっともベタ褒めしてくれたのがナチスドイツだ。

 ベルリン五輪後、日本人選手の活躍に感激したナチスの法学博士が、わざわざ来日して日本の強さの秘密を研究するとして、こんなリップサービスをした。

「オリムピツクにおける日本選手の態度の紳士的なのにはただ感激している。大和魂とナチス魂とは何処か共通している所がある」(読売新聞、1936年9月17日)

 こういう「洗脳」を80年以上前から繰り返し受けてきた日本人にとって、五輪とはもはやスポーツイベントというより、国家の威信を世界に示すイベント、つまりは「戦争」に近いものとなっている。

「戦争」は基本、国民は全員参加で、最前線で戦う兵士のため、銃後の人間は「贅沢は敵」「欲しがりません勝つまでは」にならなくてはいけない。メダルという「戦果」を得るために命を懸けるアスリートのためなら、飲食店が潰れようが、バイトやパートの方たちが「経済死」しようがお構いなしというのも、五輪が国家の命運をかけた「戦争」だからなのだ。

 戦争だから、一度始めてしまったら、もう誰にも止められない。大平洋戦争のように、いきつくところまでいくしかない。つまり、五輪はやめる・やめないという段階はとっくに過ぎて、一億総玉砕という段階なのだ。

 ここまできたら、我々も腹をくくって、ナチスも認めた大和魂で、世界に日本人のすごさを見せつけるしかない。狂っていると思う方もいるだろう。筆者もそう思うが、これが「日本」なのだと割り切っていくしかないのではないか。