森永太一郎森永製菓創業者
 森永製菓は1899年に、創業者の森永太一郎(1865年8月8日~1937年1月24日)が、東京の赤坂溜池に開設した2坪程度の菓子工場が発祥だが、森永が洋菓子製造を習得したのは米国で、帰国までには数々のドラマがあった。

 佐賀の伊万里町に生まれた森永の実家は陶器問屋。6歳のときに父が亡くなり、次いで再婚した母とも離別し、孤児となった森永は親戚の家を転々としながら、13歳で行商を始めた。83年に上京し、陶器の貿易商に勤めたが、生活は苦しいまま。「米国では日本の焼き物を持ち込めば何でも売れる」という話を聞き込み、渡米を決意する。まったく英語を話せないにもかかわらず、妻子を残して24歳で単身渡米するが、ろくに商談もできない商人が成功するはずもなく、無謀な挑戦は失敗に終わる。

 失意の中、サンフランシスコの公園のベンチで横になっていたとき、上品な婦人から美しい包装紙に包まれたキャンディーをもらう。そのキャンディーのあまりのおいしさに、森永は「西洋菓子の職人になろう。これを日本に持ち帰れば、日本の子どもたちはきっと喜ぶだろう」とひらめいたという。

 とはいえ当時、日本人を雇ってくれる菓子工場などない。米国人の家で召使いのような仕事を見つけては日銭を稼ぎ、鎌倉で暮らす妻子に全額を送り続けた。そしてそんな中、親切な米国人夫婦の導きでキリスト教と出合い、26歳のときに洗礼を受け、クリスチャンとなる。菓子職人の夢は忘れ、宣教師となって郷里でキリスト教の布教をすることを決意。貨物船の作業員として、船中で労働しながら日本へ帰ってくる。

 しかし、故郷の伊万里の街角で宣教するも、まったく相手にされないどころか、異教に入信したということで叔父や叔母にも勘当されてしまう。森永は、これも神の与えた試練と捉え、くじけることはなかったが、衣食が足りなくては伝道もできないことを痛感。妻子に菓子職人としての技術を身に付けることを告げ、わずか3カ月の日本滞在の後、再び渡米する。今度はオークランドのキャンディー工場で掃除係の職を得て、そこから5年間の工場修業で西洋菓子の製法を習得、都合11年間の米国生活を終えて帰国する。

 かくして99年に、マシュマロやキャラメルを主力製品とする森永西洋菓子製造所が設立された。その後の成功は周知の通りである。

 今回紹介するのは、1935年4月に森永が社長を引退した際に「ダイヤモンド」35年5月21日号に掲載された、「懺悔」と題された社長退任の辞である。文中で森永は「森永という菓子会社を始めたのは、その利益をもって福音の宣伝に努め、信仰のためにささげるつもりだったのである。(中略)ところが、世の中が恋しくなり、いつか信仰から遠ざかるようになってしまった」と告白している。前述の通り、森永にとって菓子製造業は元々、伝道の資金のためだった。そこで、社長退任を機に、再び「余生を福音の宣伝に尽くしたい」と宣言している。実際、この2年後に71歳で没するまで、森永は全国を巡り、各地の教会で伝道活動に励んだ。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)
週刊ダイヤモンド1935年5月21日号1935年5月21日号

菓子会社を始めたのは
福音の宣伝と信仰のため

 私は明治23(1890)年に米国に渡った。そしてキリスト信者になった。ところが、日本人である私が、米国から金銭の世話を受けて伝道に努めることを快くは思わなかった。

 明治32(1899)年に帰朝して、森永という菓子会社を始めたのは、その利益をもって福音の宣伝に努め、信仰のためにささげるつもりだったのである。

 私は米国で3カ所の菓子工場で働いたので、菓子製造に対する経験を得て帰ったわけである。