メンタルヘルスの重要性に
声を上げるアスリートたち

 その理由は怪我など、競技続行に支障をきたすほどの肉体的トラブルによって競技が続けられなくなったというわけではありません。競技で自らのパフォーマンスをフルで発揮できるだけの精神状態からは当時程遠く、自身のメンタルヘルスを守るために棄権するという判断に至ったそうです。

 スポーツ業界ばかりでなく世界全体が彼女の早々の回復と復帰を待望する最中、彼女自身は東京の片隅のある静かなジムに籠(こも)り、基礎トレーニングに打ち込んでいました(非公開の練習のためにジムの利用を許可してくれたのは、順天堂大学でした)。そして最終種目に、どうにか間に合わせて復帰した彼女は、見事に銅メダルを勝ち取ったのです。コーチ陣から期待されていた金色のメダルでこそありませんでしたが、彼女が成し遂げたことはそれ以上に重要な意味を持っていました。

 世界トップレベルの者たちが競い合う大舞台で活躍する若きアスリートが、過度のプレッシャーによるメンタルヘルスの不具合を訴え、そして自分に正直にそれを訴え棄権する。そして、さらにその後回復し、大舞台に戻って入賞する。アスリートであること以上に、シモーネ・バイルズはひとりの人間としての立場を優先することの大切さ、そしてその意義を世界へ向けて発信したのです。

「オリンピックでは、自分の期待したとおりの結果を残すことはできませんでした。ですが、精神と身体の健康を最優先に考えられたことは、おそらく私にとって過去最大の成果となったと言えます」と、バイルズは言います。

 まさに、そのとおりではないでしょうか。

 既に多くの人々の目標とする人物の一人となっていたバイルズ選手が示したその姿勢こそ、彼女と同世代の人々が既に感じていること、そして世代の異なるわれわれがようやく気づきはじめようとしていること。つまり、いかなる場合においても、「精神と身体の健康は、勝負の犠牲にするべきものではない。むしろ、常に最優先されるべき大切なものである」ということを、改めて教えてくれたのです。

 東京オリンピックによって「アスリートのメンタルヘルスに関する議論が行われるに至った」という、米国オリンピック・パラリンピック委員会メンタルヘルス部門のディレクター、心理学者のジェシカ・バートレイ氏の談話が米タイム誌に掲載されています。

 大会の期間中、バートレイ氏を中心とするサポートチームのもとに、毎日10件ほどの相談が持ち掛けられと言っています。そしてそのアドバイスを求める依頼のほとんどが、匿名のものだったことも。つまり、世界的なパンデミック禍であることとともに、世界最大のスポーツイベントの渦中にいるという重責によって多くのアスリートが精神的に圧迫され、他者は当然、自らの想像を超えて困難な状況に追い詰められていたということが理解できるはずです。

 東京2020夏季オリンピックが開催される前(2021年5月27日)には、世界ランキング1位のテニスプレーヤーだった大坂なおみ選手が、自らのメンタルヘルスを守ることを理由に全仏オープン試合後の会見には応じないという決断をしていました。

 以降、ますます多くの有名アスリートたちが自身のメンタルヘルスに関して、話題にすることを恐れなくなりました。