煙を吐き、高速で走行する危険な鉄道は都市の内部には乗り入れさせず、中心部への移動は町はずれに置かれたターミナル駅から馬車鉄道(後に路面電車)などに乗り換えなければならなかった。しかし車体が小さく速度も遅い馬車鉄道(路面電車)では都市の輸送を捌ききれない。そこで危険な鉄道を都心まで安全に乗り入れさせるための工夫が始まった。

 その最初の事例が1863年にロンドンで開業した世界初の地下鉄「メトロポリタン鉄道」である。続いて1871年、ニューヨークで高架鉄道が開業。どちらも線路と道路を立体交差させることで市街でも蒸気機関車を運転できるようにしようとしたものだ。

 こうした事例は明治初期の日本にも伝わっていた。明治の東京の都市計画を主導した「市区改正委員会」は1888年、ロンドンやニューヨークを念頭に市内の鉄道は道路と立体交差とするとの原則を定めており、現在のJR中央線が新宿~牛込(現在の飯田橋駅付近)駅間の延伸を出願した際も、途中に踏切を設置する計画があったのを立体交差構造に改めさせている。

 その後もメインストリートである新橋~上野間(現在の山手線・京浜東北線)や、さらにそれを乗り越える総武線御茶ノ水~両国間などの高架鉄道が建設されていく。日本も明治時代から都市に踏切は作るべきではないと分かっていたのである。それがなぜこのような事態になってしまったのか。

東京の急拡大で
顕在化した踏切問題

 問題は東京の急激な拡大だった。当時の行政区域である「東京市」は皇居を中心に半径5キロ(概ね山手線の内側から深川、押上、三ノ輪を結んだエリア)の範囲しかなかったが、1920年の時点で東京府(現在の東京都)の人口のおよそ3分の2にあたる約218万人が住んでいた過密都市であった。

 後の23区内に相当する周辺地域(当時における「郊外」)の合計は約118万人で、既に郊外化は進み始めていたが、この流れは関東大震災で決定的なものとなる。1925年の調査では東京市の人口は10万人以上減少して約205万人となる一方、周辺地域は206万人となり一気に逆転した。この原動力となったのが大正時代から昭和初期にかけて相次いで開業した山手線に接続する私鉄だ。