ついで、元暦元年(1184)には、問注所という裁判機関を設けている。この「問注」とは、訴訟当事者から事情を聞くことである。当初、問注所は、頼朝の邸宅の一部が充てられていた。同じ頃、幕府に公文所という機関も置かれた。ここは一般政務の処理を行ったのだが、後に公文所は「政所」に改称される。政所は、幕府の財政機関であり、関東御領の経営、幕府が請け負う東国荘園の年貢の京進(京都の領主に進上)が主要任務であった。

 一国ごとの公領や荘園の領有関係や田積を記した大田文の作成・保管も仕事の一部だった。ちなみに、元来、公文所は、平安時代に国衙におかれ、公文書を処理する役所を指した。

 政所も、平安時代、貴族の家で荘園の事務や家政などをつかさどった所を指したのである。都には京都守護が置かれ、朝廷との交渉や治安維持の職務を果たした。ちなみに、義時の父・北条時政も京都守護となっている。

 この他、地方にも行政機関が設置された。九州には、在地の御家人を統率するための鎮西奉行が、陸奥国には奥州惣奉行を置いた。陸奥国では、葛西氏を平泉(岩手県平泉町)に、伊沢氏を多賀の国府(宮城県多賀城市)に置き、奥州惣奉行としたのだ。幕府の命令を国内に伝えたり、国務を遂行したりしている。

 その後、正治元年(1199)正月十三日、源頼朝が死去すると、家督は長男の頼家が継承した。18歳の若き武家の棟梁の誕生である。しかし、わずか3カ月後には、訴訟を直接裁断することが禁止されてしまう。

 鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』の同年四月十二日条には次のような記述が載っている。「諸訴論のこと、羽林(頼家)、直に決断せしめ給うの条、これを停止せしむべし」と。そして同書には続いて、「今後、大小のことにおいては、北条時政、北条義時、大江広元、三善康信、中原親能、三浦義澄、八田知家、和田義盛、比企能員、安達盛長、足立遠元、梶原景時、二階堂行政らが談合し成敗せよ、その他の者が訴訟のことを執り行うことはできない」とある。

 この一文が、頼家が訴訟に直接判決を下すことが停止され、有力御家人十三人の合議制に決裁が委ねられた事を示すと以前は考えられてきた。『吾妻鏡』には、傍若無人な態度をとる頼家の姿も記されているが、これも頼家の直接判決が停止された説の裏付けとされた。