ところが、今ではこうした見解は有力ではない。有力御家人十三人の合議制に決裁が委ねられたとされる『吾妻鏡』の記述は、頼家への訴訟の取次を有力御家人十三人に限定する事を定めたに過ぎないと解釈されるようになってきたのだ。しかも、十三人の宿老が一堂に会して合議した例は確認されない。もちろん、何人かが集まって相談する事はあったであろう。よって、「十三人の合議制」なるものも、実体はないものといえる。そもそも、『吾妻鏡』自体に、それ以後も、頼家が積極的に相論に関与する事例が載せられている。

歴史道 Vol.19週刊朝日ムック
『歴史道 Vol.19』
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 陸奥国(宮城県)の新熊野社の社領の境相論に際して、頼家が「土地の広い、狭いは、その身の運・不運による。よって使者を派遣して現地を実検することは不要。今後、境相論はこのように決める。もし少しでも理を尽くしてはいないと思う者は相論をしてはならない」と言い放った事はよく知られる。これは同年五月のことではあるが、六月には、梶原景高の未亡人に所領を安堵した。

 こうした事から、頼家は政権の意思決定から排除された訳ではないといえよう。「十三人の合議制」なるものはなかったにしても、宿老が個別に頼家に意見をしたり諫めるという事はあった。若く未熟な頼家を支える体制は構築されていたのである。

 しかし、頼朝死後の鎌倉幕府は、有力御家人同士の血で血を洗う抗争が繰り返されることになる。『吾妻鏡』で「言語(弁舌)を巧みにする士」と評された梶原景時は、有力御家人66人の弾劾を受け、正治元年(1199)に失脚し、翌年には敗死。頼朝の乳母・比企尼の縁者として重用された比企能員も建仁三年(1203)に北条氏により謀殺。次第次第に北条氏が幕府内で力を増していくのであった。

◎監修・文/濱田浩一郎
1983年大阪府生まれ。姫路日ノ本短期大学、姫路獨協大学講師を歴任。専門は日本中世史。主な著書に『中学生からの 超口語訳 信長公記』(ベストブック)、『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)、『龍馬を斬った男 今井信郎伝』(アルファベータブックス)他多数。

週刊朝日ムック『歴史道 Vol.19』から

AERA dot.より転載