総合商社が花形となった
昭和の高度成長時代
伊藤忠の越後正一、瀬島龍三が石油ビジネスと同程度に力を入れたのが自動車ビジネスである。
自動車ビジネスはすそ野が広い。1台には3万点もの部品が使われている。そのいくつかを納入するだけでも利益になる。また、完成車の輸出ビジネスもあれば販売するカーディーラーを経営することもできる。
総合商社にとって自動車ビジネスはぜひとも欲しい案件だった。
だが、自動車とそのビジネスについては少し、背景説明が必要だ。
昭和の高度成長時代、1959-1969年のGNP(国民総生産)を見ると、1965年だけ成長率が低い。
名目の成長率は10.2%だけれど、インフレのせいであり、実質成長率は4.4%だった。その他の年の実質成長率は、ほぼ10%程度もしくはそれ以上だ。
そのため、この年を「昭和40年不況」「証券不況」と呼ぶ。山一證券が倒産寸前まで行き、サンウェーブ、日本特殊鋼、山陽特殊鋼がつぶれた。そして証券市場は低迷し、世の中には不景気風が吹いた。
時の佐藤栄作内閣は不況を乗り切るために公共事業の拡大と減税、そして、戦後初の赤字国債を発行した。
太平洋戦争中、国債を発行して戦費にあてたことへの反省として戦後、国が赤字国債を発行するのは禁じていた。だが、佐藤内閣は財政処理特別措置法を作り、「租税収入が異常に減少した」場合、国会の議決を経て、赤字国債を発行できるようにしたのだった。
現在に至るまで、半世紀以上も続いている赤字国債はこの時、復活した。コロナ禍もあり、今では赤字国債がなければ国の財政は保てない状況となっている。
ただ、佐藤内閣の対処は的確だった。潤沢な予算で景気を刺激したこともあって、66年から70年まで実質経済成長率は10%を超えた。その時期をいざなぎ景気と呼ぶ。
それまで日本の輸出品は主に繊維製品と軽工業製品だったのが、この時代からは鉄鋼、自動車、家電製品へと変わっていく。総合商社は資源を輸入する一方で、重工業製品、電気製品を輸出するようになった。
この時、日本の輸出は拡大していったのだが、特徴が二つあった。
一つは、ベトナム戦争と関連した間接特需である。間接特需品とはアメリカが東南アジア諸国の共産化を防ぐため援助した重工業製品などのこと。主に日本の工業製品が東南アジア諸国へ送られた。なかでも東南アジアが切望したのが悪路でも走るトラック、バス、そして警察車両、消防車といった特装車だ。総合商社は援助ビジネスでさまざまな工業製品を送ったが、自動車は重要品目だった。
もう一つの特徴は、南アジア、東南アジアへ向けた日本からの経済援助だ。1960年代の後半には台湾、タイ、マレーシア、インドネシアへ経済援助を増やし、橋梁、港湾設備、鉄道、ダム建設などのインフラ整備を行った。ここでもまた悪路でも走る日本の自動車を持っていった。
各総合商社はそうした場合、オーガナイザーとして建設会社、車両製造会社などを糾合して、現地で仕事にあたったのである。商社が「ザ・商社」と呼ばれ、輸出の花形だった時代だ。