東亜石油京浜製油所水江工場(神奈川・川崎市川崎区水江町)東亜石油京浜製油所水江工場(神奈川・川崎市川崎区水江町) Photo:JIJI

「川中」進出を狙った
東亜石油への投資で失敗

 1966年、伊藤忠社長の越後正一は川上、川下だけでなく「川中」進出を決意し、石油精製会社、東亜石油に経営参画を決めた。

 進出のきっかけについて、越後は次のように記している。

「当社が石油産業(川上、川下部門)に本格的進出を決めたのは三十八年五月(1963年)で、私としては当然相当な犠牲を覚悟した上のことだった。(略)たしか昭和四十年の秋、病床にあった山下(太郎 アラビア石油社長)さんから、同氏所有の東亜石油株の肩代わりの話をいただいた。これは当社にとって大変な決断を要する問題だった。当時、民族資本の大同団結が叫ばれていたし、経営的にも巨額にのぼる同社の累積赤字が消せるかどうか。その上、一流リファイナリーにするためには、五万バーレルの能力を最低二十万バーレルぐらいまでには拡張しなければならないなどと、これはおそろしく金のいる仕事、それだけに危険をはらむ問題であった。

 昭和電工の安西(正夫 社長)さん、富士銀行の岩佐(凱実)頭取から、東石の再建に、伊藤忠はどんな犠牲を払っても最後までやり抜く決意があるか、もし本気でそう考えているなら、自分らも協力する。(略)

 山下さんからの肩代わりは実を結んだのであった。早速、当社から経営首脳を送って再建につとめ、川崎工場を十万バーレルに拡張したほか、知多に十万バーレルの最新鋭工場を完成させた」

 越後は川中部門への参入を考えてはいたけれど、赤字の東亜石油に対しては逡巡があった。しかし、当時の実力財界人に呼び出されると、はっきりと「ノー」とは言えない…。ためらった末の決断だった。伊藤忠が名実ともに総合商社になるためには川中の精製部門を持つことが必要な投資だったからだ。

 伊藤忠が石油ビジネスで最初に進出したのは「川下」と呼ばれる伊藤忠燃料、伊藤忠石油という、二つの販売会社を設立したことだった。

 その後、「川上」の原油開発に乗り出した。高原が走り回ってインドネシアなどで油田開発を行ったのである。問題は「川中」の石油精製部門を持っていないことで、それもあって、越後は東亜石油に投資したのである。

 だが、蓋を開けてみたら、東亜石油は数々の問題をはらんでいた。

 なんといっても、東亜石油は「元売り権」を持っていなかった。

 かつては政府に登録した元売り業者だけがガソリン、灯油、軽油などをガソリンスタンド、給油所に販売することができた。

 しかし、「元売り権」のなかった東亜石油は精製した製品を共同石油に委託して、手数料を払って給油所などに売ってもらうしかなかった。そのため、他の精製会社よりも余計な流通コストを払って商品を売らなくてはならず、当然、利益は薄くなる。