この事件は、知能犯と暴力犯が混じりあわせになっているように見えながら、実際には知能犯としての要素が強い。昭和という時代をふり返ってみても、これほど手のこんだ、そしてマスコミを巧みに使い、警察内部にも通じていて、この時代の人びとの感情を利用する犯罪はなかった。

 したがって、グリコ・森永事件の犯人グループについても、高度な教育を受けた反体制の思想をもつ人物、警察の捜査に通じていてそれを破る自信のある人物、さらには大手企業の弱点を熟知していてどのような脅しが効果あるかを知っている人物、などの像が浮かんでくる。しかも日本の警察は広域になればなるほど捜査が手間どるという事実を巧みに利用しての犯罪でもあった。犯人たちはこうした犯罪を利用して、捜査当局に悪罵を浴びせ、その権威を失墜させようと狙っていたこともまたまちがいないだろう。

 犯罪が高度化するとともに、よりこの情報社会のウィークポイントを狙ってくり返される、そういう時代の予兆だったといえるだろう。ただ犯人グループは、大衆がこうした犯罪を甘い目で見て、欲求不満そのものを解消するとにらんでいたようにも思えるが、現実にはそのようなことはなかった。姿の見えない犯人の不気味さというイメージが強かったからである。

 グリコ・森永事件のプロセスで、この犯罪に似せた事件は98件起こったという。そのうちの67件では犯人が逮捕されている。

 グリコ・森永事件は、平成12年にすべて時効になった。犯人グループはひとりも逮捕されることはなかった。捜査当局が「完敗」した事件として記録にのこされることになった。犯人グループもまた、バブルのあの昭和狂騒曲のなかで必死に国民にむかって時代への不満を演じたのではなかったか。そして、犯罪のバブル化。のこされた挑戦状をひとつひとつ丹念に読んでいくと、なおのことそう感じられてくるのである。

AERA dot.より転載