「人が変わったような練習姿勢を見せるかと期待したんですが……。頭を丸めたからいいだろうくらいに思っているのかもしれません」

 2試合制の延長なし。ポイント制(勝利1、引き分け0.5)で順位が決まるコロナ禍での変則規定だ。早稲田の勝算は十分。1回戦を先発・早川で勝つ。2回戦は悪くとも引き分けに持ち込む。延長を考慮しなくてよいので投手の継投、代打策の計算が立つ。東大に2勝を挙げ、8ポイントで優勝というシナリオを小宮山は思い浮かべていた。

 明治に7‐1、3‐3と1勝1分け。「この引き分けは勝ちに等しい」と小宮山は評価した。続く法政にも2‐0、6‐6。特に2回戦は7回終わって4‐6の劣勢を一丸となって引き分けに持ち込んだ。8回表、前日に完封勝ちしている早川が法政打線を抑えると、その裏の早稲田は代打・福本翔が初球を振り切って殊勲の同点打を放つ。

 前半の難敵相手に勝率10割、3ポイントで乗り切ったのである。

 東大戦の前、日の暮れも早くなった10月のことだった。

 4年生幹部が監督室のドアを開いた。

「2年生を、ベンチに戻してください」

 彼らは監督に頭を下げた。勝つためには彼らの力が必要だと。

「この秋は、2年生を使うつもりはなかった。それでもやっていける。でも4年生の受け止め方は違っていたようです。確かに必死で練習する部員もいた。だからといって、という気持ちもこちらには強かった。しかし、4年生が結束して談判に来たことにほだされました」

 2年生が干されたことで、ベンチ入りのかなった4年生もいた。その当人も「勝つために、戻してください」と訴えたのだ。優勝のためには、自分よりも力のある2年生を入れてほしいと。

 そんなことが言えるような関係性が生まれてきたのである。

 1年前、早川主将たちが3年生のとき、すぐ上の4年生と監督との緊張関係を目の当たりにしている。小宮山はこう省みる。

「あれこれ指示しなかったが、もう少し手を差し伸べていれば。部員には荷が重い場面もあったかもしれない」

 ピッチャーが打たれて苦しいときでも、あえてマウンドに行かなかった。「自分たちの招いたピンチだ。自分たちでなんとかしろ」という自主の促しである。

 佐藤孝治助監督が丁寧に部員たちのヒアリングをしていたこともあり、指導のバランスを取ったという思いもあった。だが当時の4年生から見れば、「降りてこない監督」には畏怖があったのだろう。

 その関係性を見ていた今の4年生にとっては、「監督が自分たちのところに降りてきた」と感じ入ったのかもしれない。この夏、膝詰めで気持ちを出し合ったことも大きかったはずである。

 4年生の意気に、小宮山はようやく首を縦に振った。

 東大戦のスターティングメンバ―。蛭間拓哉がスタメンに名を連ねた。

「ただし打順は8番。なめるなよ、と」

 蛭間は春季リーグ戦では5番打者。5ゲームに3本塁打9打点と活躍した。その強打者が8番。事情を知らぬ対戦相手やファンは「なぜ?」と思ったのではないか。東大戦の観客席では、「ケガでもして本調子じゃないのかな」「いや、小宮山采配だよ。相手投手は下位打線にも気を抜けない」などと話すファンもいた。

 確かに小宮山采配には違いない。監督の感性と、そして4年生の結束が、後の「奇跡としか言いようがない勝利」を呼び込むことになる。

(敬称略)

小宮山悟(こみやま・さとる)
1965年千葉県生まれ。早大4年時には79代主将。90年ドラフト1位でロッテ入団。横浜を経て02年にはニューヨーク・メッツでプレーし、千葉ロッテに復帰して09年引退。野球評論家として活躍する一方で12年より3年間、早大特別コーチを務める。2019年、早大第20代監督就任。