学生時代の経験の多くは今後取り戻すことが不可能だし、オンライン授業ではうまく学ぶことができない生徒も少なからずいたことだろう。学校は、課題と試験だけあれば勝手に自習で勉強が進められるような子ども(一定割合は存在する)以外の子どものためにある仕組みだ。また、自習ができる子どもにとっても、勉強以外の社会的経験ができる場だ。

 直接測ることは難しいが、この時期に学生だった子どもたちの不自由の損失は極めて大きかったのではないか。

ウクライナ問題とコロナの関係
コロナ報道一色に変化

 論理的に直接のつながりがないし、両者を結びつけることに無理があるのは承知しているつもりなのだが、世間の最大の関心が、「コロナ」から「ウクライナ」に移ったことは、コロナに関わる過剰自粛を見直すいい機会だ。

 コロナが世間の関心の中心である場合、政治もメディアももっぱらコロナを取り上げて、それがことさらに大きな問題であるかのように扱いたい動機を持つ。

 野党政治家が政府や自治体を「追及」するにも、政府や自治体および与党政治家が対策を「アピール」するにも、コロナこそが最大の問題だという強調を伴う。視聴率やページビューが欲しいメディアが、コロナをできるだけ大きな問題として取り扱いたい事情も、卑しいとは思うものの、経済合理的には理解できる。

 こうした状況下では、「コロナをなるべく普通の感染症のように扱って、自粛のデメリットをできるだけ減らす方が、バランス上いいのではないか」といった意見は主張しにくい。

 もちろん、コロナは重大な問題だ。現にわが国では無視できない数の人が亡くなったり、重症化したりしている。一般国民の生活との関連ではウクライナの問題よりもずっと距離が近い。

 ここで、どちらがより重要な問題であるかを比較するつもりはない。ただし、コロナが唯一最大の関心事である状態よりも、ウクライナの紛争によって現在、コロナについてより冷静に論じやすくなっている状況は意識しておきたい。