「高リスクな人のために低リスクの人が我慢」から
「高リスクな人が自ら気を付ける」へ

 ワクチン接種が進み、現在の流行の主流であるオミクロン株の重症化リスクはデルタ株より低いとされている。また、治療薬も登場・普及しつつあり、そもそもコロナに関する知識が当初よりも普及した。こうしたことなどを考えると、「新規感染者数」1人当たりの社会的重要度は、かつてよりもずいぶん減少しているはずだ。

 かねて、新型コロナウイルス感染症の感染症法上の位置付けを、結核など危険度が高い「2類相当」から、季節性インフルエンザ相当の5類に変更すべきだという議論がある。治療費の負担や、再び深刻な状況になった場合の協力金などの問題、データ収集の問題などがあり、「直ちに2類相当から5類に」と強硬に主張するつもりはない。ただ、コロナに相対するに当たって、社会の基本的な心構えを変えることを提案したい。

 それは、「特に高齢者や基礎疾患がある人にとってコロナは命の危険がある病なので、死亡リスクの小さい若者も感染を拡大しないように自粛に務めるべきだ」というコンセンサスからの転換である。「若者をはじめとする低リスクグループの人たちの行動はなるべく制約せずに、高齢者など高リスクグループだと自認する人(場合によっては若者も含む)の側が自分で感染に気を付けることが社会的には好ましい」とマインドセットを切り替えるよう促すのだ。

他人の幸福追求を妬むのはおかしい
意味のない「恥ずかしいこと」だ

 コロナの初期には、会食や飲酒する人々に対して「今は大変な状況なのに、それを気にせずに楽しんでいるやつは不愉快だ」という嫉妬や処罰欲求の感情を抱く人が少なくなかった。

 しかし、自分にとって害がないのであれば、他人がより多く楽しむことを快く思わないのは、素朴な経済学のロジックからすると意味のない「恥ずかしいこと」だ。

 それにもかかわらず、わが国では、「あなたに害をもたらさない他人が幸福を追求することを妬むのはおかしい」と言っても、自分たちが多数派だとの実感を持っていると「妬む」ことの表出をちゅうちょしない人が少なくない。ただ、「コロナ自粛」のコストの大きさと、かつてと比較した場合の無意味さは徐々に理解の幅を拡げつつある。例えば、いわゆる「自粛警察」は、今や非難や嘲笑の対象になりつつある。良くも悪くも「空気」は動いている。

「やりすぎなくらい慎重」であることを有権者にアピールしたいらしい岸田文雄首相には無理な注文かもしれないが(「やりすぎ」は単に「やりすぎ」なだけなのだが)、「高リスクな人の側が気を付けることで、社会の自由度を増やすことの素晴らしさ」について、明快に言語化して説明できる政治家の登場に期待したい。

 もちろん、深刻な症状を伴いやすい新しい変異株の登場や、医療体制が追いつかないくらいの重症患者の増加が生じた場合には、海外と同じロックダウン(都市封鎖)のような措置も選択肢に入れていいだろう。しかし今は、自粛のマイナス面に対する配慮を強く求めてもいいのではないだろうか。

 一部の報道によると、まん延防止等重点措置の適用を、当面の期限である3月21日に全国一斉に解除することが政府で検討されているらしい(大阪府は期限直前まで見極めるようだ)。その場合、単に解除すると言うだけではなく、考え方の変化について明確なメッセージが伴うことを期待したい。