戦国七雄の大国「斉」とは?

 その代表的な例が、戦国七雄の中でも大国であった斉(せい)です。

 斉は、現在の山東省を支配しており、その都は臨淄(りんし)と呼ばれました。

 BC4世紀後半、斉が最も盛んであった威王や宣王の時代のことです。

 臨淄を囲む城壁に、稷門(しょくもん)と呼ばれる城門がありましたが、その城門の近くに多くの学士を招き、邸宅を与えて研究費(資金)を支給したのです。

 そして自由な研究や著述を行わせたばかりではなく、学士同士による活発な論争をも勧めました。

 その盛況ぶりはプラトンのアカデメイアと似ていたかもしれません。

 斉の人材登用法は全国的に有名となり、多くの学士たちが稷門にやってくるようになり、彼らは「稷下(しょくか)の学士」と呼ばれました。

 たとえば、性悪説を唱えた儒家の荀子(じゅんし)、兵家の孫臏(そんぴん)、陰陽家の鄒衍(すうえん)、さらに孟子も訪れています。

 陰陽家の鄒衍は、稷下の学士のリーダー格の一人でした。

 『哲学と宗教全史』では、哲学者、宗教家が熱く生きた3000年を、出没年付きカラー人物相関図・系図で紹介しました。

 僕は系図が大好きなので、「対立」「友人」などの人間関係マップも盛り込んでみたのでぜひご覧いただけたらと思います。

(本原稿は、13万部突破のロングセラー、出口治明著『哲学と宗教全史』からの抜粋です)