プーチンは1999年8月16日、首相に任命された。その10日後、「第2次チェチェン戦争」が起こっている。これは、ロシア連邦からの独立を目指したチェチェン共和国との内戦だ。プーチンは、チェチェンを容赦なく攻撃し、結果彼の支持率は急上昇した。

 2000年に大統領になると、しばらく平和な期間がつづき、経済は奇跡的に復活した。

 その背景にあったのが、ロシアの主な収入源である原油の価格の右肩上がりだ。原油価格は1998年、1バレル10ドルほどだったが、2008年には140ドル台まで暴騰している。

 こうした中、プーチンは2008年、「ロシア経済を復活させた偉大な大統領」として、国民に惜しまれながら、その地位を弟子のメドベージェフに譲り、自らは再び首相に就任した(2012年、大統領に返り咲いている)。

 そして、この年の8月、「ロシア・ジョージア戦争」が起こっている。

 ロシアは短期間で勝利し、ジョージアからの独立を目指すアブハジア、南オセチアの独立を承認した。

 さらに2011年にはじまったシリア内戦で、プーチンは、アサド大統領を支援した。米国と欧州は、「反アサド派」を支援したので、これはロシアと欧米の「代理戦争」と化した。

 結果は、どうだったのか?

 アサドは、現在も大統領を務めている。つまり、プーチンは、シリアにおける代理戦争で欧米に勝利したのだ。

 その後、2014年2月、ウクライナで革命が起こり、親ロシア派ヤヌコビッチ政権が打倒された。この革命の背後に米国がいることを確信したプーチンは2014年3月、クリミア併合を断行した。

 2014年4月、ウクライナ東部の親ロシア派が、「ルガンスク人民共和国」「ドネツク人民共和国」の建国宣言を行った。

 ウクライナ新政権は当然これを許さず、内戦が勃発する。

 この内戦は2015年2月の「ミンスク2合意」によって停戦が成立した。

 その後、自称「ルガンスク人民共和国」「ドネツク人民共和国」は、事実上の独立状態にあり、プーチンの思惑通りになったといえるだろう。

 このように、プーチンは、ちゅうちょすることなく武力を使い、戦いに勝つことで人気を維持してきた。

 その一方で、戦えば戦うほど国際的孤立を深め、制裁によってロシア経済はまったく成長しなくなった。

 ロシアのこのような状態を筆者は、「戦略的敗北」と表現している。