1冊はマサチューセッツ工科大学(MIT)教授のニコラス・ネグロポンテの『ビーイング・デジタル』で、もう1冊はボストンのITジャーナリストのデビット・C. モシェラが書いた『覇者の未来』でした。

 2冊とも、当時の書籍としては洞察力に富んだとても興味深い本だったのですが、『ビーイング・デジタル』は世界的なベストセラーであった一方で、『覇者の未来』は知る人ぞ知る名著という位置づけでした。

 ここが、出井さんの「イノベーションについて議論を深める技術」の片りんともいうべきものでした。出井さんが挙げた2冊の本はそれぞれ、1冊が共通言語、もう1冊が本題の役割を果たしていたわけです。

 当時のネグロポンテは、「アトムからビットへ」という主題で月に1回、ワイアードにコラムを書いていました。それをまとめたのが『ビーイング・デジタル』というベストセラーで、この本を読んでいないとこれからやってくるデジタル革命の意味についての議論が始められないというぐらいの基本書でした。ちなみに、ネットバブルが到来する3年ぐらい前の話です。

 一方でデビット・C. モシェラは歴史家のように大企業の盛衰を研究し、過去に繁栄し一時代を築いた「覇者」としてのトップ企業が、「なぜトップに君臨できたのか」をそれぞれ分析していました。そして、その研究をデジタルに当てはめて「デジタル時代の覇者の条件」を予測していたのですが、出井さんが議論をしたかったのはその仮説の妥当性でした。

 このような議論は、成立しにくいものです。現在進行形のイノベーションというものは、前提としての知識がみんなバラバラだからです。でも、出井さんはネグロポンテの書籍を通してデジタル革命について前提条件をそろえたうえで、モシェラから受けた啓発の予言を同じように精読した人と議論する必要があると考えたのです。

 一番のポイントは、「そうやって2冊の本をわざわざ読んでから出井さんに会いにくる人はどんな人なのか」を考えたことだと思います。

 おそらくこのような背景があって、出井さんの秘書は「出井さんにお近づきになりたい若い感性」を何人分か選んでは、本を配っていたのかと思ったりするのです。