“共に生きるまちづくり”のスタートラインとして
「地域コミュニティ」という言葉をインターネットで検索すると、津田さんの言うように“希薄さ”を懸念するものが目立ち、その活性化に向けて、国や地方自治体がさまざまな提言や施策を行っていることが分かる。
大なり小なり、「地域」と括る場所はさまざまあるが、たとえば、ひとつの町には、高齢者・外国人・障がいのある人・単身者……と、あらゆる人たちがいる。その関わり合いの強弱は情報発信ツールの進化と比例関係にあるように思えるが、ともすれば、SNSは同調圧力を生み、オンラインでのコミュニケーションはリアル空間よりもセレンディピティ(偶然性のある出会い)が乏しくなる。遠くに住む「同タイプの人」の距離が縮まっても、近くに住む「異なる人」のつながりが強まるわけではない。だからこそ、ひとつの空間の中で、自分と異なる生活スタイルや価値観の人を間近に見て、知ることには大きな価値がある。たとえ、強い結びつきができなくても、さまざまな人が集い、プログラムに参加できる「あーち」は、“共に生きるまちづくり”のスタートラインになるはずだ。
「あーち通信」の創刊第2号(2005年11月号)で、津田さんはこんなエピソードを披露している。
「ある地域に、身体と知的に障がいのある子どもが産まれたのですが、その子の親は離婚や失踪で早くにいなくなってしまい、一人だけ取り残されました。このような場合、ふつうは施設に入れられるのですが、この地域の人たちはちょっと違いました。何とかこの街で立派にこの子を育てていこうと、街の人たちが立ち上がったのです。多くの住民が協力しあって、この子を学童保育所に連れて行き、学校に通わせ、成人させたのです。その後も、彼が地域で一生を送ることができるようにするための実践は続いていきます。今では、彼が中心にいるパン屋さんがつくられ、地域の人たちとの関わりの中で生活しています」
津田さんは、多くの人たちが協力し合える風土と、支援の手が差しのべられる環境が大切であり、そのためには、地域コミュニティが一人ひとりの命や人生に関心を持つことが必要だと語る。
「オリイジン」の取材中、予約を入れずに「あーち」を訪れた女性が入り口の掲示板を見ていた。やがて、スタッフがその様子に気づき、女性に声をそっとかけて、受付・情報コーナーに導き入れた。
コロナウイルスは、人と人とのリアルなコミュニケーションに壁を作ったが、「あーち」の現在進行形のように、見知らぬ者同士が集い、関わり、相手と学び合うことの意義も浮き彫りにしている。
かけがえのない季節を刻む陽が、何気ない一日の中で傾いていく。
いまから17年前、開館したばかりの「あーち」に毎日通っていた母親はいまどうしているだろう……もう、とっくの昔に、「あーち」を“卒業”してしまったのだろうか。ふとそんなことが気になって、津田さんに尋ねてみた。
「そのお母さんは絵がうまくて、『えんじぇる君』という漫画を、『あーち通信』に描き続けてくれています。成人した『えんじぇる君』は、相変わらず、みんなに笑顔を振りまき、お母さんは『あーち』のボランティアの学生たちといまもずっと付き合っています。ついこの間の日曜日もレンタルスペースを借りて、神戸大学の学生や卒業生、『よる・あーち』に集う障がいのある青年層の人たちと集い、みんなでケーキを作ったそうです」(津田さん)
※本稿は、現在発売中のインクルージョン&ダイバーシティマガジン「オリイジン2020」からの転載記事「ダイバーシティが導く、誰もが働きやすく、誰もが活躍できる社会」に連動する、「オリイジン」オリジナル記事です。