謝罪の場にも神が存在
同調圧力で「最終兵器」化

 第三の理由は、謝罪の場には神が存在することだ。

 もともと日本社会は欧米諸国と比べると、圧倒的に古い俗信・迷信を残しているため、日本人はきわめて信心深い。

 たとえば、コンビニによって仕掛けられた節分の「恵方巻き」の習慣が、2000年代以降にあっという間に全国に広がったのは、実は日本人が信心深いからだ。

 しかも一神教が原則の欧米と違って、多神教の日本では「八百万(やおよろず)の神」というように、森羅万象、至るところに神が宿っている。

 ここから、意外に思われるかもしれないが、謝罪の場にも神が存在することになる。つまり謝罪は神にも向けられている。それゆえ、土下座による謝罪を受け入れないのは難しい。

 たとえば、人気マンガ『どげせん』では、土下座を武器にひたすら頭を下げて要求を押し通し、難題を切り抜けてゆく高校教師が描かれている。

 この作品で象徴的なのは、教師が土下座するシーンがきわめて神秘的に、まるで宗教的儀式のように描かれていることだ。土下座の言葉は神主の祝詞のように響き、一種の呪力を持つことになる。

 土下座の場には神が存在するがゆえに、周りから「まあ、許してやれよ」という同調圧力が生じ、謝罪を受け入れざるを得なくさせるのである。

 確かに私たちは、誰かに突然土下座をされ謝罪された場合、それを理不尽な「暴力」だと感じる。こうした圧力を感じるのは、それが本心からの謝罪でないとしても、土下座という儀式が、「謝罪の最終兵器」として圧倒的な有効性を持っているからだ。

 土下座が「謝罪の最終兵器」であるために、近年は企業の謝罪だけでなく、個人の間でも手軽に使われるようになっている。圧倒的な効果があるという点で、これを好意的に見る人もいるかもしれない。

 だが私は、土下座をするのもさせるのも、「自尊感情」をひどく傷つける、「人間の尊厳」に反する行為であり、即刻やめるべきだと思っている。

 そうすることで、多少なりとも日本人の「自己肯定感」の意識のあり方を、変えてゆけるのではないかと思う。

(九州工業大名誉教授・評論家 佐藤直樹)