「政教分離」の原則は
日本では守られているのか

 最後に、日本における「政治と宗教」の問題を、「政教分離」の原則と照らして考えてみたい。

 政教分離には、国家による一切の宗教的活動を禁止する「分離型」、特定の宗教を国家が公的に保護しているが、それと他宗教を国会が平等に扱えばよいとする「融合型」、国家と教会は独立しているが、一定の制度的協力関係が存在する「同盟型」など、さまざまな形態がある(山折 2012)。

旧統一教会、日本会議、創価学会…自民党「宗教で票集め」の冷徹な実態本連載の著者、上久保誠人氏の単著本が発売されています。『逆説の地政学:「常識」と「非常識」が逆転した国際政治を英国が真ん中の世界地図で読み解く』(晃洋書房)

 分離型はフランス、融合型は英国、同盟型はドイツが代表例である。

 日本はフランスほど厳格ではないが、第2次世界大戦後、国教であった「神道」を政治から切り離したという歴史的経緯に鑑みると「分離型」に属するといえる。

 そもそも政教分離は、16世紀の欧州の宗教戦争に端を発し、フランス革命で実現した。国家が特定の宗教権威・権力(当時で言うローマ教皇)ではなく、世俗権力によって支配されるべきだとする「国家の世俗化」の産物である(西谷 2000)。

 また政教分離とは、どんな形態であれ、権力・権威から信教の自由を守るためのものであることが大原則だ。

 日本においては、政党が宗教団体を集票に利用し、宗教団体の組織的拡大を許してきたのは確かだ。だが、宗教団体の要望に沿った政策を一切実現しなかったこともまた事実である。

 宗教団体側も、過度な政治的要求は控え、会員増と資金増による「組織存続」のために政治と接することに徹してきた。その意味で、日本では政教分離の原則が守られているという、一定の評価はできるのではないか。

 そのため、安倍元首相の殺害事件をきっかけに、特定の宗教を過度にバッシングしたり、その活動を制限したりといった、事実上の「宗教弾圧」が始まることは避けるべきだ。

 こうした弾圧を許してしまうと、「信教の自由」にとどまらず、「言論の自由」「思想信条の自由」「学問の自由」が権力によって制限されることにもつながりかねない。

 一方、宗教によって被害を受けている人やその家族については、救済を進めなければならない。その困難さ、壮絶さは大学教授として少しだけ関わって知っている。

 その経験からも強く主張したいが、政治家が宗教団体を集票組織として安易に使うことや、「お墨付き」を与えることは、今後は厳に慎むべきである。

<参考文献>
山折哲雄(2012)『宗教の事典』朝倉書店
西谷修(2000)「宗教と近代―世俗化のゆくえ」『宗教への問い4 宗教と政治』岩波書店 P28~29