これは万一、城地没収となった場合、藩札の引き換えに応じて領民の不安を取り除くと同時に藩士へ退職金をどれくらい払えるか、筆頭家老として把握しておくためであった。

 こうした内蔵助の周囲への気配りや用意周到さは、のちに吉良邸討ち入りの際の準備段階にもいかんなく発揮されたことは言うまでもない。例えば、一日も早い上野介への仇討ち決行を求める江戸詰めの強硬派(堀部安兵衛、高田郡兵衛ら)をなだめるためにも内蔵助は細心の注意を払っていた。

浅野大学が広島本家に永預けと決まる

 元禄14年の夏が近づくと、江戸の強硬派が京都・山科に閑居する内蔵助に対し、手紙で仇討ちの実行を促してきた。それが度重なったことで、このままでは暴走しかねないと危惧した内蔵助は、原惣右衛門らを使者につかわし、「今は大学様(内匠頭の弟)をもって浅野家再興を幕府に嘆願しているさなかだから、勝手な行動は厳に慎んでもらいたい」と説得させている。

 ところが、強硬派は一向に折れなかったため、その年の11月、内蔵助自ら江戸に出府し、堀部らの慰撫に当たっている。これが、大石の「第一次東下り」と言われるものだ。のちに内蔵助は、念には念を入れようと考えたらしく、翌元禄15年の春にも堀部らに説得の使者(吉田忠左衛門)をつかわせている。

 浅野家再興のための運動資金として一銭でも多くの金子(きんす)を手元に置いておきたい内蔵助にとっては、こうした京都と江戸の往復にかかる旅費や滞在費は頭の痛い出費だったに違いない。しかし、その出費を惜しんだことで、強硬派が暴走してしまっては本末転倒というものだった。

 元禄15年7月、浅野大学が本家広島の浅野家に永預けと決まる。これで浅野家再興の夢が完全に断たれてしまった。ここで腹を括った内蔵助は、上方にいる同志を集め、赤穂城明け渡し以来、自らの胸に温めてきた存念をこう吐露したのだった。

「今年中に亡君の仇を報ずるつもりだ。皆々の覚悟はいかに」