そして決行当日の12月14日、江戸市中の3カ所に集合した赤穂浪士たちは深夜となり、それぞれの場所から本所の吉良邸を目指したのである。この日の夜、吉良邸では年忘れの茶会が開かれることを内蔵助は事前につかんでいた。つまり、上野介は確実に在宅しているとにらんだわけである。その確証を得るために、上野介の周囲にいる複数の人たちから裏付けを取っているのが、いかにも内蔵助らしい。
内蔵助の気配りという点では、こんな逸話もある。討ち入りの直前、彼は同志たちに鉈豆(なたまめ)を食べさせていた。福神漬の材料としておなじみの野菜だ。古来、鉈豆は「腎を益し、元を補う」滋養強壮食品として知られていた。それをわざわざ取り寄せて同志たちに食べさせたのである。
さらに内蔵助は、本懐を遂げて吉良邸を引き揚げる際、餅と蜜柑を同志たちに食べさせてもいる。戦闘が収まればさぞや空腹を覚え、喉も渇くことだろうと気をまわし、それらを携行させていたのである。また、事前に血止め薬を配っていたとも言われている。この用意周到ぶりはどうだ。
生活に困窮する同志には金銭の扶助も
赤穂浪士が吉良邸を引き揚げる際の話をもう少し続けると、上野介の遺体の取り扱いに関してだが、遺体を寝所に運んで布団に寝かせるなどごく丁寧に扱っていた。
火の始末にも注意し、戦闘時に使用した蝋燭などは庭に集めて水をかけ、屋敷内の火鉢にも水をかけて回るという念の入れようだった。また、隣家の土屋主税(つちやちから)邸(※上級旗本)に使者を出し、夜中に騒がせたことへの詫びを入れることも忘れなかった。