討ち入りの際の服装や武器にも言及

 10月上旬、内蔵助は山科を出て江戸へと向かった。途中、川崎の平間村で知人宅の離れに滞在する。そして、ここから江戸の同志あてに、討ち入りの際に守るべきことを箇条書きした「訓令十カ条」を送っていた。いくつか紹介しよう。

一、討ち入りのときの服装は黒小袖を用いること
一、武器は随意。ただし槍、半弓を使う者は届け出ること
一、機会があっても抜け駆けで本意を遂げることは許さない
一、相手は百人余もあろうが、一人対二、三人のつもりでやれば全勝疑いなし

──など、討ち入りの際の服装や武器、戦い方まで細かい指示がなされており、このあたり、「気配り屋」の内蔵助の面目躍如たるものがある。

 11月5日、江戸に入った内蔵助は日本橋石町の旅籠・小山屋弥兵衛方に草鞋(わらじ)を脱いだ。公事訴訟のために江戸に出てきたという触れ込みで、この宿で月末まで滞在している。内蔵助自身は「垣見五郎兵衛」という変名を名乗ったという。

 当時、土地争いなどに関する訴訟や裁判のために地方から江戸にやって来る人は大勢いて、一カ月くらい滞在することはけっして珍しくなかったのである。

 内蔵助はこの宿に腰を据え、同志らを指図して吉良邸の偵察や絵図面の入手、屋敷に出入りする人物の素性を探らせるなど考えつく限りの準備を行っている。

同志たちの食べ物にも気を遣う内蔵助

 12月2日、内蔵助は頼母子講の寄合と称し、深川八幡の茶屋に全同志を集めた。

 そこでは、討ち入りの際の注意事項が再確認されており、装束や武器、所持品、合言葉など16項目にもわたるものだった。例えば、「上野介の首を挙げたら、その首を上野介の上着にくるんで持ち出すこと」といったことまで決められたという。