ここで、あたかも米国の政治哲学者ジョン・ロールズの「無知のヴェール」のごとく、自分がこれから生まれる人間だと想像してみる。すると、能力主義が一層強化されて、経済的な対価に反映される新自由主義の世の中に新たに生まれてくるのは、なかなかに「怖いこと」だと感じる。

 ここまで考えると、経済を活性化するために新自由主義的な能力主義の世界を受け入れるには、それに見合ったセーフティーネットが必要であることに気付く。強度の能力主義には、それに見合うだけ強力な社会的保険が必要なのだ。

弱体化する家族と企業の
セーフティーネット

 日本では、経済的弱者に対するセーフティーネットの小さからぬ部分を家族や企業の負担に割り当てているが、この方針はセーフティーネットを弱くしている。

 今や教育は、家族にとってコストの掛かる一大ミッションだし、高齢者や障がい者の介護も施設より家庭を中心として実行されている。家族が協力し合うこと自体は良いことなのだが、家族にとっての負担を重くすることはいいことだと思えない。

 例えば、子どもを育てるコストを考えると、結婚した夫婦は子どもを持つこと、子どもの数を増やすことに消極的になる。加えて、そもそも結婚に対するインセンティブが低下する。少子化、非婚化が進行する。つまり、家族の役割を重視することで、むしろ家族の人数が減ることにつながっている。

 また、企業にも企業年金のような形で社員の老後のサポートを一部負担させたり、高齢者の雇用延長を要請したりするなど、社員に対する福祉の役割を担わせようとしている。ところが、このことこそ企業が正社員の採用に消極的になる要因を作り出している。セーフティーネットを持った正社員の共同体としての企業にも縮小への力が働いている。

 家族や企業にメンバーを手厚く扱うことを押し付けることによって、むしろ家族も企業も痩せ細っていくのだから皮肉な現象だ。