江戸もやはり城下町であり、複雑につくられた道が多い。しかし、世の中が平和になれば複雑な道は邪魔になってくる。火災などの災害は悲惨な結果をもたらすが、その後の復興は道路修復のまたとない機会となる。1657年に起きた明暦の大火では、江戸の半分が焼き尽くされたという。その後は延焼による火災を防ぐために、火除地や広小路が設けられた。現在の上野広小路もこのとき新設されたものだ。

 1923年の関東大震災でも、東京は焦土と化した。そして、第二次世界大戦の東京大空襲で三たび灰塵に帰した。大火災が大被害につながった原因の一つは、道路の狭さにある。道路が狭いと、ひとたび火災が発生すれば、延焼を防ぎきれない。一方、避難できる空間が各所にあれば、多くの犠牲者を出さずに済む。

 関東大震災後、内務大臣兼帝都復興院総裁の後藤新平は東京復興計画を打ち出した。しかし、それには莫大な予算が必要なことから反対意見が多く、結局この計画は押し潰され、現在の昭和通りなど、計画のごく一部が実施されるにとどまった。

 第二次世界大戦後にも、壮大なスケールの東京戦災復興都市計画なるものが打ち出された。もしこの計画が実現していたら、東京には名古屋や札幌にあるような、道路幅が100mもある幹線道路が縦横に走っていたはずだ。しかし、事業より先に人口が膨張しはじめ、また財政難から事業計画の見直しを余儀なくされた。そのため計画は大幅に縮小され、無秩序、無計画な超巨大都市が出来上がってしまったのである。