座面が360度自在に動き、バランスボールのような不思議な座り心地で「疲れにくい」姿勢をサポートするコクヨのオフィスチェア「ing」。さまざまなオフィスチェアの常識を覆し、爆発的なヒットとなったこの製品が生み出された背景には、今日的なデザイン組織の在り方と普遍的なデザイナーの姿勢が重なって存在していた。開発責任者の木下洋二郎氏に話を聞いた。(聞き手/音なぎ省一郎、構成/フリーライター 二階堂尚)
ユーザーインサイトから発想することの大切さ
――「ing」開発のきっかけは座禅だったそうですね。
きっかけの一つですね。確か2013年だったと思いますが、禅寺で座禅を組むという若手向けの会社の研修メニューがありまして、それに参加させてもらったんです。当時から椅子の開発に関わっていましたから、「座る」ことの原点を改めて体験してみようという意図でした。その研修の帰りのバスの中で、「座り過ぎ問題」に関する大学の研究結果が出たというニュースを見たんです。座ることの弊害が科学的に証明されたといった話でしたね。
――散々座ってきた後で、「座り過ぎ」はだめだと証明されてしまったわけですね(笑)。
そうなんですよ(笑)。でも、座ることが人間にとって害だったら、禅寺なんかとっくになくなっているはずじゃないですか。では、座ることの何が駄目なのかなと考えて、仕事や何かの作業をする上で、長時間同じ姿勢で座り続けることが駄目なのではないかという視点にたどり着いたわけです。
――そこから、座りながら微妙に体を動かせる椅子というアイデアが生まれたわけですね。
そのアイデアを基にいろいろプロトタイプを作ってみたのですが、あまりうまくいかなくて、オフィスの通路に置きっ放しにしておいたんです。そうしたら、それに座って楽しそうに体を動かしている社員がいて、目からうろこが落ちました。
僕たちはそれまで、椅子のメカニズムを工夫することで、体を動かしやすい椅子を作ろうとしていました。しかし、それよりも「自然に楽しく動ける仕組みや形」が大事なんだと気付いたんです。そこで注目したのが重力の力です。座面にかかる重力の力に頼って、楽しく体を動かせたら……。そんなことを考えて、夜中の近所の公園のブランコをこぎながら椅子の機能を考えたりしました。夜な夜なおっさんが1人でブランコをこいでいる様子はかなり怪しかったと思いますが(笑)。
――黒澤明監督の『生きる』みたいですね。1人の社員の姿を見たことがきっかけで、ユーザーのインサイトをつかんだということでしょうか。
そういうことですね。ものづくりはどうしてもシーズ起点と考えられがちです。誰もが驚くような製品を生み出すために、そのアプローチは効果的です。「ing」ではそれにユーザー視点が掛け合わさったことで、イノベーションと呼べる成果につながったんだと思います。
――ユーザーのインサイトを捉えることができた理由はどこにあると思われますか。
僕自身がずっと腰痛に悩まされていて、自分が座りやすい椅子とはどういうものかということをいつも考えていたということが一つ大きかったと思います。ユーザーの視点でものを考えてきたということですね。
それから、やはり僕がデザイナーであるということももちろんあると思います。デザイナーにはデッサン力が求められます。デッサン力とはすなわち観察力です。その訓練を受けてきたからこそ気付けたことがあったのではないでしょうか。もっとも、「観察」という行為自体は誰でもできることなので、それを重視するかしないかで大きな差が出るともいえるかもしれませんね。