「抽象的か具体的か」ではなくその両方から表すという姿勢

アイデアからビジネスの意味を見つけ出す言葉の使い方mayucolor / PIXTA

 私は5年以上、日本の人々に意味のイノベーションの説明をしてきました。そこで一定の割合で見られる反応は「意味のイノベーションは哲学的なレベルに基づいていて、大変良い(あるいは、難しい)」というものです。ここでの哲学的とは「一つの表現では言い切れない抽象的な言葉を使う」ことを意味していると思います。この内容をさらに突っ込むのであれば、「自分の向かいたい方向がなんとなく感じられるのだけど、それをどう言葉で表現すればよいか分からないから、曖昧な表現や実用的ではない言葉を使う」ということでしょう。いわゆる西洋哲学の術語を使うわけでもなさそうです。

 ある状態をそれなりの精度で分析しようという意図があり、それらを言葉で表そうとする。その行為を哲学的というか、そうではないというか、それこそ哲学的議論になりそうです。従って、この点は脇に置いておくとして、「哲学的な思考に入っている」と言いたい人と、「とてもではないが哲学なんて面倒な話は苦手」と吐露する人がいる。しかし、どちらにも共通するのは、なんらかの具体的な経験や現象を前にして、「そうではない姿を探したい」との態度です。「そういうのは嫌いだ。私はこれとは違うものが良いと思う。でも、その良いものが何なのか、よく自分ではつかみ切れていない」という状態です。

 これは、どなたもが日々味わっていることです。それをあえて哲学的であると表現するのは、一つには技術的に取り組める問題解決を下に見たいと思う人が、「意味のイノベーションは哲学的である」と整理する傾向にあるかもしれません。あるいは形而上(感性的経験では知り得ないもの。有形の現象の世界の奥にある、究極的なもの)とか、形而下(感性的経験で知り得るもの。時間・空間の中に形を取って現れるもの)という言葉があるくらいなので、形になりきれないものを「上」とする思考があるのかもしれません。いずれにせよ、この上は下があって成立するものです。意味のイノベーションで大事なのは、この上下をいかにセットでつかみきるかということです。雲をつかむような話をしているのではないのです。

 従って、繰り返しますが、現実に目に見えるものを出発点とした場合、現実を具体的に言葉で描写することをおろそかにはできません。昨今よく聞く表現を使えば「言語化する」「解像度が高い」が相当しますが、これによって現実は、「どこにでもよくあること」ではなく、「今、まさに体感できること」になります。