だが、六男の忠輝の居城として、家康は商業都市と一体化した城下町をあまり好まなかったので、わざわざ新築同然の福島城を捨てて7kmほど内陸部の高田に移させた。八男義直の名古屋も熱田という宿場町、門前町を兼ねた重要な港町から、8kmくらい離れている。
関ヶ原の戦いの前哨戦が行われた大津では、新城主となった戸田氏が城だけが隣接する膳所に移ったが、大津の町はそのまま残ったので、膳所の商業地区は石高のわりにも小規模のままだ。庄内地方を与えられた酒井氏は、港湾都市酒田と内陸部の鶴岡で逡巡したのち、士風維持のためには港町で庶民と同居するのはよろしくないとして鶴岡を選び、井伊氏の彦根では中山道を城下に入れず、郊外の高宮に大きな宿場町を置いた。
街道筋の小さな城は街道を付け替えて城下を通したが、これは、旅人の監視という意味もあったようで、わざと、屈折して曲がりくねっていたりする。
幕府は武士たちが原則としては、城下に住むことを推奨したので、城下町はかなりの大都市になった。江戸時代後半には、全国の人口3000万で、3000万石だった。そして、全国平均で士族は数パーセントだったので、石高の20分の1くらいの武士、足軽、武家奉公人などの半数以上が城下に住んだとし、それに町人が加わるので、城下町の人口は、1万石に対して400~500人ほどというのが目安だった。
黒船来航のころで、金沢と名古屋は人口10万人を少し超えていたが、そのほかは、大きな藩の城下町でも3万~5万人くらいだったようだ。
(徳島文理大学教授、評論家 八幡和郎)