着眼点3
「作品に罪はない」という思考
不快感を軽減できるかもしれない着眼点その3は、「作品に罪はない」である。これに関しては捉え方がさまざまなので、必ずしもこの考え方をした方がいいというわけではない。ここでは、思考の選択肢の一つとして、紹介する。
そもそも、両作品そのものに罪はなかった。
作品の内容とほぼ関係ない(特に『バービー』は原爆とは全く関係ない)ところで起きた炎上が、作品の方まで飛び火した。作品にとっては完全なとばっちりである。『バービー』の公開を心待ちにしていた知人は、作品がすっかりいわくつきになってしまった今のこの状況に、悲しそうにしている。
炎上が作品の方に飛び火していったさまを同情的に観察する人は、「作品だけにフォーカスして、作品を評価しよう」と心がけるようである。
一方で、「ここまで話題になっているのに沈黙を貫くのは宣伝に利用しているということ――つまり加担している」との考え方もある。
また、「話題になった以上、関係者サイドから一言あってしかるべきだ」という考え方もある。映画『バービー』日本公式Twitterアカウントがジャパンプレミアを取り上げた投稿には、バーベンハイマーについての説明がなかったことに失望するファンたちのリプライで埋め尽くされている。中には、主演の「マーゴット・ロビーが出演する映画は金輪際見ない」という人もいて、とばっちりがすさまじいが、一般観客の心情としてはわからないでもない。そう思わされるくらいのショックが、この一連の騒動にはあったわけである。
さて、心の健康を保ちうるかもしれないいくつかの着眼点を紹介したが、わざわざそんなことを考えて自衛する必要が生じてきている展開がもとより非常事態である。
先に書いた通り、米国本社のワーナーは謝罪声明を出しているが、それでは不十分と考える人も多数いるようで、日本国内では事態はいまだ沈静化の兆しが見えない。
原爆投下を巡る国家間の認識の違いは、時折表面化して問題となり、今に始まったことではない。2018年には、人気K-POPグループBTSのメンバーが原爆投下を描いたTシャツを着ていたことを受けて、日本の音楽番組が出演を見送りにしたことがあった。
他国の原爆投下に対する認識は、日本人のそれとは大きく異なるという現実を突きつけられたとき、日本人は尊厳を踏みにじられるかのような絶望に直面する。国という巨大な共同体同士だから彼我それぞれに立場や正義があるのは当然なのだが、越えてはならない一線がいともたやすく越えられるような悲しさがつきまとう。
しかし他国の原爆投下への認識に対して、日本が異を唱えるようになった――正確にいうなら「“異を唱える”ことが市民権を帯びてきた」のもSNSが浸透したごくごく最近ではあるまいか。つまり他国に理解を求めようという試みが自国内で多数の同意のもと、きちんと始められた段階であり、これは必ず成果となって未来にあらわれるはずである。
なお、「バーベンハイマー」は現在#NoBarbenheimerに対抗して、原爆投下肯定を含意する#YesBarbenheimerというハッシュタグが生まれている。個人的には気が狂いそうなくらい嫌な気分になるが、諸外国から日本を理解してもらうためのプロセスとしては痛みを伴うのも必要なのかもしれない。この騒動も、全体の流れの中ではポジティブに位置づけられるものと信じて、現況に向き合いたい次第である。