バブル時の輸送量急増で浮上した
新幹線のターミナル設置構想

 東海道新幹線は開業以来、日本の経済成長とともに年々利用を増やしていき、1965年から1975年までの10年間で輸送量は3倍以上に膨れ上がった。しかし高度成長が終了すると、運賃値上げの影響も相まって輸送量は1970年頃の水準で停滞した。

 それを一転させたのがバブル経済だ。1980年代後半から輸送量は再び急増し、1990年頃には国鉄民営化前から4割近く増加した。その結果、1989年10月には、「ひかり」の終日平均乗車効率は99%、つまり一日平均で見れば全列車の座席が埋まっている状況となった。JR東海は発足直後から東海道新幹線の抜本的改良に取り組む必要が生じたのである。

 同社は車両を増備し、「ひかり」を毎時1本増発、毎時最大11本(1時間当たり「ひかり」7本、「こだま」4本)ダイヤとしたが、回送列車4本を含めた毎時15本の折返しが東京駅の折返し能力の限界で、これ以上の増発は困難だった。

 しかし輸送需要に見合った輸送力を確保するには、回送を含めて毎時19本の運行が必要と試算されたことから、これまでとは異なる発想の輸送力増強策が求められた。そこで注目されたのが東京駅と大井車両基地の間を走る回送列車だ。

 大井車両基地への分岐点は山手線田町駅付近にあるため、これより南側で折り返すことができれば増発が可能になる。こうした条件が合致する乗換駅として、品川に新たな新幹線のターミナルを設置する構想が浮上したのだ。

 JR東海は1990年の決算発表において、2面4線のホームに7本の留置線、検修線を備えた「品川新駅」構想を発表するが、問題はその用地だった。同社は隣接するJR東日本の品川車両基地の用地を買収する意向だったが、JR東日本はこれに難色を示す。東口側には1992年に移転を予定していた新幹線品川車両基地があったが、再開発(現在の港南口側)の計画が決定しており、用地の転用は困難だった。

 最終的にJR東海、JR東日本、JR貨物、国鉄清算事業団の用地を組み合わせ、2面4線、留置線3線の新駅を設置することで合意し、構想から約5年を経た1995年に東京都が都市計画を決定。1997年に着工した。