民間企業で都市計画や地域計画に携わっていた、流山市長の井崎義治氏。2003年5月に同市市長に就任し、マーケティング発想の施策を次々に打ってきた結果、人口減少に歯止めがかかり、財政も再建を果たしつつある。そこに至るまで、当初流山市に巣食っていた3大課題とは? そして、「政治家」というより「自治体経営者」と自らを評する井崎氏は、なぜ市長になり、改革を断行したのか?
――井崎市長ご自身が、1989年に流山市に移住を決めたきっかけは?
流山市長
昭和29年 東京都杉並区生まれ。昭和51年 立正大学卒。昭和60年 San Francisco State University大学院人間環境研究科修士課程修了(地理学専攻)。 平成元年に、12年間の在米生活から帰国後、流山市在住。 昭和56年からJefferson Associates- Inc.、昭和58年からQuadrant Consultants Inc.、昭和63年から住信基礎研究所、平成3年からエース総合研究所に勤務。平成15年より流山市長(現任)。 千葉県市長会長(令和3年2月1日 ~ 現在)、全国市長会 関東支部長(令和5年5月17日 ~ 現在)、千葉県後期高齢者医療広域連合長(令和3年2月16日 ~ 現在)、千葉県市町村振興協会理事長(令和3年3月17日 ~ 現在)、千葉県公立学校施設整備期成会会長(令和3年6月25日 ~ 現在)。趣味は筋トレ。
私はサンフランシスコ州立大大学院を修了後、米国の民間企業で都市計画や地域計画に携わっていました。帰国が決まって日本でどこに住もうかと考えたとき、都市計画に携わってきた人間として、かなりリサーチしたのです。
比較対象として念頭にあったのは、米国で暮らしたサンフランシスコとヒューストンです。サンフランシスコは急こう配の坂が多く、歳をとってから暮らすには厳しそうでした。一方、ヒューストンはまっ平な大平原ですが、低地で緑も少なく退屈な印象でした。ですから、歳をとっても移動に困らない程度の緩やかな起伏がある丘陵地で、緑も多い流山市は、長く暮らしていくには理想的だなと思ったのです。ちょうど、秋葉原からつくばを結ぶ「つくばエクスプレス(TX)」が開通するタイミングでもあり、それも魅力の1つでした。
――当初、流山市のどのような点に問題を感じたのですか。
2つあります。急激な少子高齢化が始まっていたこと、そして、TX沿線区画整理事業の事業管理――コスト管理、時間管理、販売戦略ができておらず、街づくりが無計画だったことが、直面していた2大危機です。付け加えれば、それらに誰も気づいていないことが深刻な問題だと思いました。
少子高齢化は、地方から東京に出てきて就職後に郊外で家を構えた、団塊の世代の方たちが多く暮らす大都市近郊のベッドタウンで急激に進みやすい構造があります。彼らが年金生活に入ると、税収が一気に落ち込んで福祉の負担が増え、市民サービス水準の維持が難しくなります。流山市も典型例で、すでにかなり進んでいました。
TX沿線区画整理事業についても対応が急務でした。TX沿線一帯に宅地や商業地の大規模な開発が計画されていて、流山市もその一環として市域の約18%に及ぶ広さで、総事業費約1250億円もの大開発が予定されていました。ところが、私が市長に就任以後に毎年行っていた首都圏の調査では、TX沿線における自治体の知名度は、1位がつくば、2位が柏、3位が守谷で、流山の知名度は非常に低かった。流山市は住宅・宅地購入の選択肢に入ってこない可能性がありました。もしこの開発地が売れ残れば、市の赤字が増大してしまいます。
個人的に街としての流山に可能性は感じていましたが、このままいけば顕在化する前に潰されてしまう。それで、思い切って市長選に出ました。たとえば音楽に抜きんでた才能をもつ子どもが、それを学ぶ環境を与えられず才能を開花できないと思ったら、「もったいない!引き取って育てます」と言いたくなる、そんな気持ちと似ていました。
――最初から市長になろうと思われていたわけではなかったんですね。
政治家になりたいと思ったことはまったくなく、あくまで街をよくするための手段が市長だった、ということです。最初の市長選では、地盤もなく、当然落選しました。ただ惜敗だったので次のチャンスに向けて、同じ問題意識をもつ市民と対話集会を重ね、2度目の挑戦で当選しました。
私は「政治家」というより「自治体経営者」だと思っています。
――民間企業でお務めの経験は市政でどのように生かされましたか。
とにかく、流山市をTX沿線でいちばん早く、一番高く売れる街にすることを課題としました。米国で暮らした12年間に、5大陸100都市を訪れたなかで共通して人気の街・住宅地というのは「緑の多い良質な住環境」「快適で楽しい都市環境」という条件を備えていました。景気が悪化しても、そういう街ではきちんと買い手がつきます。流山市もこれを目指すべきだと考え、最初にSWOT分析(強み、弱み、機会、脅威の要因分析)を行いました。そして、課題を解決するためにはマーケティング戦略が必要だと考えて、マーケティング課を設置し、民間人を任期付きで採用しました。
――市役所の職員たちから「マーケティング」という言葉に当初は猛反発があったと聞きます。
「マーケティング=金儲け」という誤解があったのか、そもそも行政に必要ないものと思われていたのでしょう。市におけるマーケティングとは「市民を理解し、行政サービスを市民に合わせ、おのずから利用されるようにすること」という意味だ、とわかってもらうために、マーケティングとは何かを知ってもらう勉強会を半年ぐらいやりました。「やるリスク」より「やらないリスク」を常に考えてほしい、と言っていて、職員の意識改革もかなり進んだと思います。自分は「忍耐強い」「打たれ強い」ということを市長になってから認識しました(笑)。
今後、さらに環境・景観・資産の価値を上げていくためにマーケティングは欠かせません。「流山市に住みたい」と思ってくれる人をたくさんつくるためのブランディングがますます重要なので、強化していきます。