新聞の予想で無印だった選手が勝ってしまったり、本命選手が二着なら許せたのに三着だったり。その微差の理由は説明されないし、誰も解明できません。だからギャンブルの達人は、それを「運」か「ツキ」とかの言葉で表現するのです。

 ところが公営ギャンブルでは着差がほんのわずかでも、一着と二着、二着と三着、三着と四着には雲泥の差があり、そのわずかな着差は、馬券や車券、舟券を買った客の人生にものすごく太いくさびを打ち込んできます。

 ほんのわずかな金銭しか賭けていなくても、その差によって予想が外れれば、私の気分はどん底まで落ち込みます。

 逆もあります。保険として押さえておいた人気薄の番号で決まって、想定外に儲かったり、一点勝負の投票が見事に決まったりすると、本当に自分は天才ではないかと思えます。

 俺はツイてる。俺はギャンブルの天才だ。でも、そんな気分の絶頂は一瞬だけです。必ずそのあとのレースで外します。賭けるレースのすべてが当たる人は確実に天才ですが、そんな人はいません。いるはずがありません。そのように、当たり外れで気持ちが大きくアップダウンするのも、私たちが人間だからです。

 レースにおける選手=人間たちの戦いの結果は、投票した客にも影響し、その人の気持ちを大きく動かします。出場選手の心理と投票する客の心理状態は確実に連動しています。つまり、レースには選手と客の戦いという面もあるのです。ギャンブルとは賭ける側と賭けられる側の心理戦なのです。

 だからいかにして選手=人間を理解するかが投票券購入の重要な要素になり、そこにも公営ギャンブルの醍醐味はあるのです。

「人間を読む」ことが醍醐味
50歳を過ぎてこそ、この苦みがわかる

 公営ギャンブルの選手、競馬の騎手や調教師など裏方も含めて、彼らはごく狭い業界の中で生きる同業者であり、かつ収入源(賞金)に互いに干渉しあう商売敵でもあります。

 投票する客以上に、誰かの優勝や上位入線が誰かの収入減に直接つながるのです。プロなのだから仕方ないだろうとの意見もあるでしょうが、勝っても負けても、人間としてそれを当然のように冷徹に見過ごせますか? しかも開催期間中(3日~6日程度)、選手は同じ宿泊施設に缶詰めにされています。その宿泊所の中でなんらかの人間関係が発生し、ドラマが起きてもおかしくないと思われます。