「ダイヤモンド」に掲載された
贈収賄事件の“立役者”の手記
さて、ドラマでも描かれた通り、起訴された人たちは裁判で全員無罪となり、今では帝人事件は“でっち上げ”だったことが判明している。
「ダイヤモンド」1967年11月27日号に、「事件の立役者」とされた永野護が、帝人事件の経緯を寄稿している。渋沢栄一の番頭役も務めた実業家であり、戦後は政治家として運輸大臣の職責も果たした人物だ。
永野は当時、帝人の取締役や、山叶証券(現みずほ証券)取締役、東洋製油取締役など、多くの大企業で役員を務めていて、郷誠之肋男爵(東京株式取引所理事長、日本工業倶楽部専務理事、東京商工会議所会頭などを歴任した財界の重鎮)の番町(東京都千代田区)の私宅で開かれていた若手財界人グループ「番町会」の中心メンバーでもあった。
そもそも帝人事件は、前述した時事新報が、「番町会を暴く」という記事の中で報じた帝人株を巡る贈収賄疑惑がきっかけだった。
時事新報は福沢諭吉が1882年に発刊した由緒ある日刊新聞だが、「朝日新聞」や「毎日新聞」などに読者を奪われ、関東大震災以降、部数と業績は低迷していた。そこで1932年から経営を引き受けたのが、諭吉の弟子で鐘淵紡績(現カネボウ化粧品)の社長だった武藤山治だった。部数立て直しのために武藤が打ち出した目玉企画が、「番町会を暴く」をはじめとした政財界の不正や、知られざる黒幕の存在を糾弾する連載記事だったのである。
永野は、帝人事件を回顧する中で「帝人事件のことをお話しすると、まず『時事新報』の悪口になる。時事新報の悪口というよりか、武藤山治さんの批判になるんだが……」と語っている。武藤はかねて、郷を中心とした経済界における組織化や政界との癒着に強く反対していたが、そうした主張の一方で、政治家や経営者といった権力や富を持つ者について、「悪いことをやらないと世の中は渡れないのだ」という印象を与えることで、読者の歓心を得ようとしていたとも推測される。
そして、そこには当時の政治情勢も絡む。帝人事件の2年前となる1932年、当時の犬養毅首相が海軍若手将校らにより暗殺(五・一五事件)された後、首相となったのは政党に属さない海軍出身の穏健派とされる斎藤実だった。斎藤は犬養が所属した立憲政友会からも、対抗する立憲民政党からも閣僚を入れる「挙国一致内閣」を組織し、軍部との対立を避け、国内政治と経済の安定を第一の目標とする方針を取った。
ところが、立憲政友会の右派(対外強硬派・武闘派)や、陸軍や右翼グループらは、そんな斎藤内閣に不満を抱いており、倒閣を企てた。そこででっち上げられたのが帝人事件であり、それに乗っかってしまったのが時事新報だったという見方が、現在ではなされている。ちなみに武藤は「番町会を暴く」の連載開始から3カ月後、何者かに銃撃され66歳で没している。