「『私は面倒くさいという言葉を知らないのです』というのが、ラシャペル神父の口癖でした。何事もおろそかにしない性格で、園児たちにもよく英語を教えてくれました。『みなさん、英語を一生懸命、勉強してくださいね。そうすれば、世界中の人たちとお話をすることができますよ』と。私たち信者にも、いつも優しい笑顔を振りまいていただきました」
「私は行くよ」「どうかお気をつけて」
それが最後の会話となった
2011年3月11日、午後2時46分。
大地が裂けるように揺れたとき、ラシャペルとエメは偶然、仙台市の教会で同じ会議に出席していた。
直後、ラシャペルはエメに訴えた。
「みんな、不安を感じていると思う。私は塩釜に帰りたい」
そんな親友をエメは制した。
「大きな余震が続いている。車での移動は危険だ。特に沿岸部には津波が襲ってくるかもしれない」
普段は冷静なはずのラシャペルが、そのときだけは恐怖で顔を引きつらせているように見えた。エメにとって初めて見る親友の表情だった。
エメがどんなに説得しても、ラシャペルは聞かない。
「私は行くよ」「行かせてほしい」
その瞳の強さに最後には折れるしかなかった。
「そうですか……。それではどうか、お気をつけて」
異国の地で長年支え合って生きてきた二人の、それが最後の会話になった。
エメが勤務する仙台市の教会の電話が鳴ったのは翌日の3月12日深夜だった。受話器を上げると、カナダの教会幹部からの国際電話だった。
「ラシャペル神父の遺体が塩釜教会近くの路上で発見されたらしい。明日、遺体安置所で確認してきてもらえないだろうか」
「遺体……ですか?」
エメは一瞬、相手が何を言っているのかわからなかった。震災発生時、自分は確かにラシャペルと一緒にいた。彼は地震の被害に遭っていないし、おそらく津波にのみ込まれてもいない。それなのになぜ彼は遺体で見つかったのか……?
教会の途中で心臓発作
津波で亡くなったわけではなかった
翌朝、宮城県利府町内に設置された遺体安置所に赴くと、警察官に「C10」という紙が貼られた遺体収容袋の前に案内された。
警察官がファスナーを引き下げると、親友の穏やかな顔が現れた。
「ラシャペルよ、どうして……」
警察官や塩釜教会の関係者の話を総合すると、ラシャペルは仙台市の教会でエメと別れた後、その言葉通りに勤務先の塩釜教会へ車で向かった。しかし、津波で幹線道路が寸断されたため、教会の手前で車が動かなくなったらしい。