左遷された末に
58歳で死去

 辞職後は悲惨な運命が待っていた。前述の鳥居耀蔵らの「不正疑惑」が浮上し、上司だった忠邦にも収賄の件で調べが及んだ結果、1845(弘化2)年、2万石を没収されて強制隠居・謹慎となった。家督は長男の忠精(ただきよ)が継いだが、水野家は山形藩に転封となった。左遷である。

 忠邦は1851(嘉永4)年に死去。享年58。謹慎が解かれたのは、死後5日後だったという。

 忠精はのちに復権して老中にもなったが、幕末には奥羽越列藩同盟に加わって官軍に対峙し、“賊軍”の汚名に甘んじることになる。

 忠邦は幕府の放漫財政を建て直そうとした政治改革の旗手であり、ストイックで真面目な政治家だったとする評価もある。しかし、一方で金権政治にどっぷり浸かり、家臣・領民を苦しめた面は無視できない。

 功罪相半ば――いや、「半ば」ともいえないだろう。「罪」の方が大きい男だったといえる。

●参考文献
『水野忠邦 政治改革にかけた金権老中』藤田覚/東洋経済新報社
『歴史をつくった偉人たち 日本の100人 水野忠邦』/ディアゴスティーニ
『大名列伝 第7 (幕閣篇下)』児玉幸多、木村礎編/人物往来社
『江戸時代の経世家』野村兼太郎/ダイヤモンド社