京大医学部合格者の
辞退続出でプライドに傷

 京都大医学部にもっとも多く合格者を出したのは、87年の灘32人である。東京大とのダブル合格が可能だった年だ。同年、灘から理3に進んだ上昌広さん(医療ガバナンス研究所理事長)がこう話す。上さんは京医にも合格している。

「この年、灘は例年以上に優秀な生徒が多かったようです。理3合格者はほぼ全員、京大医に受かっています。このなかには、伝説的な秀才、岡田康志君、そしてオウム真理教幹部が2人いたんじゃないかな。みんな東大に入学したので、京大医学部は辞退者が続出してえらくプライドを傷つけられた、という話を聞きました」。

「岡田康志君」は、駿台予備学校の東大実戦模試を中学3年で受けて理3合格A判定、高校1年で総合2位、2年で総合1位をとった。

 灘の教員がこう語っている。

「教員生活40年になりますが、彼のような生徒に出会ったのは初めて。灘高でも10年に1人の逸材です。ただ、彼にとって気の毒なのは、高2では実際の受験ができなかったことでこの1年間は足踏みの年になってしまった」(「週刊サンケイ」1986年11月20日号)。

 1993年、大阪市立大を経て3年の病院勤務、2年浪人して合格した女性(大阪・富田林)が「京医」入学動機をふり返る。

「4年生の夏にちょっとした病気で入院したんですが、担当のドクターがすごくよかった。医者嫌いの私が感動するくらいに気を遣ってくれた。(略)医者の仕事がやりがいがあるなって」(「螢雪時代」1993年7月号)。

 2002年医学部に合格した男子(京都・洛南)は母校をこう語る。「昔かたぎの教育方針で、塾などというのは存在すら認めない」と振り返る。

「塾に反対しているだけあって授業の質は高い!そして面倒見も良い。とくに高3教師陣は、そこら辺の予備校より断然『教える』ということに関して熟達している」(『私の京大合格作戦2003年版』)。

 授業だけでも京医に合格できる。学校はそんな体制に誇りを持っていた。