非効率を楽しむことで得る
言葉の力

――古舘さんが超二流を目指すために日頃から取り組んでおられることについてお聞きしたいと思います。本書では「記憶の沈澱物」ということで、言葉や考えなどが体の中に沈澱していて、それが話の中でフワッと蘇り、しゃべりに生きることがあると書かれています。たとえば車で移動中によく寄り道をされるそうですね。

 僕は立ち止まるとか、いきなり佇んで、何なんだろうと答えが出ないものをボーッと眺めるとか、ムダに時間を費やすとか、そういうことがすごく生きる上での香辛料になっています。コスパ・タイパの時代に、効率よく合理性を持ってムダなく生きていくというのは、最もできないタイプなんです。

 そもそも超アナログで、ムダがないと楽しくないというのがあるんで、答えが出ないことに思いを巡らしたりすることがすごく好きなんです。本書にも書いたように、「おもしろがることが最強の記憶術」だと思っています。

 あるとき、車で移動中に、前方左手の公園からゆっくりとピカピカに光るショッピングカートが車道に出てきたことがあります。公園から道路まで緩やかに傾斜していました。

 そんなに大きな公園ではないので全体が見渡せて、子どもが2~3人、中央の芝生で遊んでいました。そばに親はいない感じで、フワーンとした日常の一瞬です。

 車道は対向車と一車線ずつで、そのほぼ中央でカートは止まりました。運転はマネジャーがしていて、カートを避けて進もうとしたので、声をかけて車を道路わきに寄せて止めてもらい、僕は車を降りてカートをボンヤリと見ていました。公園を見ても、誰かがイタズラでカートを押したような気配はまるでありませんでした。

 カートの中は空っぽです。商品が入っていれば、お母さんが子どもの世話をするために一時的にカートを置いて離れたのではないかなどと想像できますが、そもそもお母さんの姿が見えない。

 いろいろ思いをめぐらしましたが、結局、誰かが置き去りにしカートが、何かの拍子で自然に動き出して道路に出てきたんだろうと。

 僕はカートを公園に戻して、また出てこないように石段のところにひっかけるように止めました。

 それだけのことです。何の答えもないし、オチもない。でも、そういうのがおもしろいんです。