第2次大戦終盤の猛攻で
敵首脳部の心胆を寒からしめる

 史上、負け方に意味があったものの一つに第2次大戦時の日本がある。

 日本は第2次世界大戦後、台湾や朝鮮半島の支配権を失うが、日本列島を含む、いわゆる「本土」はそのまま認められたのである。第1次世界大戦、第2次世界大戦、いずれも、領土の約束を得てから降伏できたのは日本だけであった。なぜなのか。

 そこには東西冷戦の影響もあったが、何より大きかったのは日本が戦争終盤になってみせた強烈な戦いの様相であった。

 戦いの状況を詳しく述べるよりも、数字を示す方が分かりやすいであろう。

 昭和18(1943)年2月に終わったガダルカナル戦では、死傷者の比率が日本軍23に対して連合軍1であった。翌昭和19(1944)年夏、ニューギニア・アイタペの戦いでは日米20:1。ところが、同年晩秋のペリリュー島での戦いは、ほぼ1:1となった。米軍は「2〜3日で陥とせる」と考えていたが、戦いはなんと70余日間続いたのである。
 
 昭和20(1945)年1月のルソン島の戦いでは、比率は5:1と日本軍がおよそ22万人の死傷者を出したが、連合軍も4万人近い死傷者を出した。さらに、昭和20年3月に終わった硫黄島の戦いで、死傷者数は1:1。いずれの戦いも「戦死」者は日本軍の方が多かったが、軍事的にいえば負傷者の増大は作戦遂行に深刻な影響を与えた。

 こうした状況を踏まえ、イギリス首相であったウィンストン・チャーチルが、アメリカ大統領ハリー・トルーマンに次のように述べている。

「もしわれわれが日本に『無条件降伏』を強制するならば、アメリカ側の人命の、それより小さいながらもイギリス側の人命の莫大な犠牲を払わねばならない」

 こうして敵首脳部の心胆を寒からしめたことが、領土の約束を得ることにつながる。