M-1誕生のきっかけとなった
島田紳助氏の「一言」

谷さん01

 楽屋にお邪魔し、「今、漫才を盛り上げるためのプロジェクトをしているんです」と話したら、「それはええこっちゃ。どんどんやってくれ!」と言ってくれました。

 当時は、テレビなどで司会のレギュラーをたくさん抱えていた超売れっ子の紳助さんですから、「いつまで漫才なんかやってんねん!」と言われてしまうのかなと、勝手に思っていたのですが、そのような熱い言葉が返ってきたので、とても驚きましたね。

 紳助さんは、「自分を育ててくれたのは漫才や」「漫才界が僕の今の地位をつくってくれたんや」と、漫才に対して恩義を感じていたようで、どこかで「漫才へ恩返ししたい」という思いがあったようです。

田原 紳助さんとは『サンデープロジェクト』(※)という番組でご一緒させていただき、親しくさせていただきました。紳助さんへのその相談が、M-1誕生のきっかけとなったわけですか? 
※テレビ朝日系列で1989年4月から2010年3月まで毎週日曜日の午前に生放送で放送されていた報道・政治討論番組。略称「サンプロ」。田原総一朗氏が総合司会を務める討論番組『朝まで生テレビ!』の成功を受けて本番組が企画され、放送開始から20年以上続く長寿番組となった。田原総一朗氏が討論ホストを務め、島田紳助氏は1989年4月から2004年3月まで総合司会を務めた

 はい。でもその日は、「(待機していた)番組の本番が始まる」ということで、相談は時間切れ。別の日にもう一度、会いに行きました。

 そこで紳助さんから「若手の漫才のコンテストをやろう」と言われました。漫才のコンテストと聞いたときはあまりインパクトがないなと思ったのですが、「賞金を1000万円にしよう」と言うんです。それにはびっくりしました。

 当時の漫才コンテストは、新人賞で5万〜10万円、大賞でも50万〜100万円ぐらいが相場です。「賞金1000万円」と聞いたときに、「それはすごい」と思いました。私も驚いたので、漫才師たちにも、世の中にも、相当なインパクトとなるでしょう。「それなら何か、おもしろいうねりを起こせるかもしれない」と思いました。

田原さん

田原 そのコンテストがM-1となるのですね。この名称にはどういう思いが込められているのですか?

 M-1の「M」は「漫才」の「M」です。当時、格闘技でトップを決める「K-1」(ケイワン)が流行っていてそこからインスピレーションを受け、「漫才の格闘技」をやろうと考えました。

 人気や受賞歴、事務所など、そうした肩書は一切抜きで、「その日の漫才がおもしろいか、おもしろくないか」だけで勝ち負けが決まる、ガチンコ勝負をやろうと。

田原 いろいろなタイプのコメディアンがいらっしゃいます。その中でも「漫才師」の特徴を一言で言うとしたらどの点にあるとお考えですか。

 「しゃべりだけで世界をつくっていく」ことが特徴ですね。例えば「コント」は、小道具や衣装、照明、音響などを使って、「医者と看護師」といった設定をつくりますよね。漫才はそういうのはなしです。2人だけでマイク1本さえあれば、世界をつくることができます。

田原 なるほど。M-1の出場資格は若手のみでしたよね。

 当初は「コンビ結成10年以内」の若手のみです。それ以外は、人気、受賞歴。男女、プロアマ、国籍問わずに出場できるという形にしました。全国(東京、大阪、札幌、仙台、名古屋、福岡、高松、広島)でまずは予選を行います。1回戦、2回戦、3回戦、準々決勝、準決勝と予選を勝ち抜いたコンビが決勝進出。そこで頂点を決めます。

田原 M-1には何組の漫才師が出場するものなのですか?

 2001年の最初の年は約1600組でした。そこからどんどんと増え、去年は8500組以上だったと思います。

田原 M-1をやると決めてからも、苦労の連続だったみたいですね。

谷さん02

 最初は、参加者である芸人たち自体が、なかなか盛り上がってくれなかったんです。ほかの芸能事務所が自分たちの芸人をエントリーさせなかったんですね。吉本が主催するコンテストなので「どうせ優勝は吉本の芸人なんだろう」と。

 そこで「賞金1000万円」が効いてきました。事務所が参加に消極的でも、若手漫才師の多くは貧乏です。ハングリーなわけです。「実力があれば認めざるを得ないはずだ」と徐々にエントリーしてくれる人たちが出てきました。

 最初は「1000万円取るぞ!」と賞金目当てでエントリーしてくるわけですが、予選を勝ち抜いていくと、自分の仲間たちが次々と脱落し、ライバルも台頭してくる。そうすると競争心が湧いてきて、芸人たちもだんだん必死に、真剣になる。コンテスト全体が過熱していったんです。

田原 初回のスポンサー探しというのは、とても大変だったみたいですね。